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神の国ではない人の国

(注意:桐島×アメリアではなく、御楯乃会×アメリアのお話です。性的な要素はありません)

 神とは何か?それは永遠の議題であろう。国を越え、時代を越え、あらゆる場所と時で語 られ続けてきた話だ。旧約から救世主の導きによって変質したキリスト教、そしてソレと同じ神(アッラーフ)を信仰するイスラム教。いずれも大いなるものを信仰する宗教 。或いは遥かなる昔よりシャーマニズムによって象られ、紡がれていた原始宗教(アニミズ ム)をルーツとした日本の八百万の神々に神の手を離れ自らを救わんとした結果神に等しきモノへと変転した仏教。

いずれにしても人は救いを求め、祈り、神と通じる道を作り上げそれを拠り所としてき た。自らを救ってくださると、光の中に迎え入れられると信じること、それが人の魂の救い となってきたものだ。

だが、時代が進めば考えは多様化し原初の信念は人の手によって少しずつネジ曲がってゆく。この国、大日本帝国もまた同じであった。神武天皇——ひいては天照大御神を太祖とする天皇家の威光を利用するということはよくあることだった。 昭和の時代、人に降りた最も新しき現人神たる彼の大元帥閣下——即ち、自らも戦う意思 を見せた昭和天皇陛下もまたそのひとり。弾圧された神々と同じように都合よく使われた存 在とも言える。しかして歪みに気付かず、信仰を続けたモノは今や怨念の権化と化していた——


秋の到来を感じさせる9月が終わり、冬へと変わりゆく10月の爽秋。時は1945年、世界を 巻き込んだ戦争が終結した混沌なる時代。最終降伏勧告、ポツダム宣言を受けいれた日本は アメリカの占領下に入ったが、人々は廃墟同然の町の中で貧困と飢餓に負けず逞しく生きて いた。あるヤミ市から戻ってきた元将校、斎賀義孝は桐島区隊長用邸宅の中を歩み進んでゆく。 カツカツと軍靴を鳴らし、洒落た回廊を進む彼は日用品を入れた木箱をその手にある部屋の 前で立ち止まる。それは厳重な戒めの成された扉。何かが閉じ込められているらしき部屋であった。固く封印されたその扉を前に、鷹の如き冷たい眼光を持つ軍人はフウと静かに息 を吐いた。

......しかし、まさか本当にあの無謀な作戦が成功するとはな。あの男も気を違えてしまったとはいえ、その辣腕は健在か

日本転覆を狙う秘密結社“御楯乃会”は果たして、その大きな目的の第一歩を成し遂げた。 如何にしてその作戦を成し遂げたか?それは語るまでもなく、構成員が優秀だったからに他ならぬ。副官として間近で見てきた鮮やかや手腕にほとほと感心したやらだ。軽く肩をすくめると施錠されていた幾つもの戒めを解き、重々しく扉を開いた。 途端に耳に心地よく飛び込むのは勇壮なる中に、何処か悲壮感を漂わせる軍艦行進曲。か つては燦然と輝く栄光と滅びの美学を歌いあげた曲は、今は死んでいった英霊たちへの鎮魂歌にも似て響く。 そして、部屋の中でそれを聞いていたのは――軽くウェーブのかかった金の長髪と、真っ白い儀仗軍制服を着た乙女アメリア・ハルゼーであった。 サファイアの如き深い蒼色の瞳は見ていれば吸い込まれそうで、その髪は艷やかに煌めきいっそ眩しいくらいだ。通るように白い肌はすべすべとした印象で、座る姿はまるでビスク・ドールを思わせた。高貴で、可憐で、それでいて妖艶な肢体の麗しの少女を前に斎賀は僅かに硬直した。 ニッポノホンから軍艦行進曲を流しながら、虜囚のアメリアはひどく不機嫌そうな顔で来訪者に視線を送り、出迎えた。しばしの沈黙の後、斎賀はゆっくりと軍靴を鳴らして彼女の 方へと歩み寄ってゆく。


「君がアメリア少尉か。女だてらに軍人をやっているからどんな女傑かと思えば......ただの 小娘か」

「......出てきていきなりご挨拶ね、おじさま? ......まったく、素敵な人たちもいたのに。 これだからカビの生えた考えを後生大事に抱えてる連中は嫌いだわ」

おじさま、という言葉に僅かに眉が上がる。だが、鷹のような冷たい眼光でアメリアを見 据えたまま皮肉げに笑う。

「フッ、口が悪いものだな。女というのはもっと慎ましやかな方が男に好かれるぞ?」

肩をすくめ、非常に攻撃的な視線を向ける令嬢に言葉をかける。だが、そんな斎賀にアメリアはフンと鼻を鳴らして臆することなく嘲笑を浮かべた。

「お生憎さま。あなた達みたいな黄色いお猿さんに好かれたくなんてないわ。だいたい相手にレディであることを求めるなら紳士でありなさいな」

「こっちは下町育ちの小僧だ、悪いが紳士より猿に近い。......さて、俺はあのお坊ちゃんに君の世話を仰せつかった。とりあえず風呂がないから手ぬぐいで身体を拭いてやろう」

斎賀はそう言うと手ぬぐいを取り出し、服を脱ぐように指示した。だが、アメリアは忌々しげな視線を送り、彼を拒絶するようにキッと睨みつけた。

「......触らないでくれる? あなた達に触られるくらいなら死んだほうがマシよ」

「そいつを選んでも構わんが......今のお前さんの立場が捕虜ではなく人質だということを忘れるなよ」

「だったらなんだというの?」

「お嬢さんが死んでもその死体には使い道があるということだ。真っ当に坊主を呼んでもらえるとは思わんことだな」

「おかまいなく。僧侶を呼んでもらえなくても神父を呼んでもらえればそれでいいわ」

「口が減らん小娘だな。面白いやつだ、殺されるのは最後になるといいな?」

「あら、せっかくの人質なのに簡単に殺しちゃうのかしら?」

斎賀はどこまでも不敵に言葉を返すアメリアに対し、口端を吊り上げて喉を鳴らしてくつ くつと笑った。そして、彼女には触れることはなく持参した手ぬぐいと湯を張った桶を傍らに置いた。

「湯が冷めないうちに身体を拭いておけ、また適当な食い物と飲み物を持ってきてやる」

「ええ、あまり期待はしてないけどどうせなら美味しいものを頼むわ。粗末な料理なんて食 べる気しないし」

「贅沢なやつだな......まあ、いい。嗜好品くらいは持ってきてやる。お前さんはまだ自分の状況をわかってないみたいだからな」

訝しげな目を向けるアメリアをよそに、斎賀は意味深な笑みを浮かべ部屋を後にした――


夜更け、一日の仕事を終えた斎賀はボンヤリと光るランプの光をその身に受けながら屋敷の中を歩いていた。食料の調達、進駐軍の動向調査、生徒兵の訓練。ひと通りの報告書を書き上げた頃にはすっかり夜になり、そろそろ夕食をと進む彼がドアを開くと桶に嘔吐するアメリアがいた。 水を口に含んでゆすいでは吐き出し、徹底的に胃液を胃袋ごと吐き出す勢いの彼女は斎賀を見ると僅かに恐怖に顔を引きつらせた。神経質なまでに拭かれて擦れた肌、乱れた髪。服装は今まで見ていたような軍服ではなく一枚のワンピースドレスであったが、連れてこられたばかりの時と違って憔悴した様子だった。

「その分では派手にやられたらしいな?」

斎賀がそう気楽に声をかけながら真新しい手ぬぐいを渡すと、アメリアは怒りに満ちた目で彼を睨み返す。


「最低の気分よ。ここから連れ出されるなりわけのわからない吊し上げを食らった挙げ 句、いきなりたくさんの人が見てる前で汚いモノをしゃぶらされたわ。目も怖かったし何なのよ、あの男は......」

「......桐島紘一、俺達の首魁だ。この組織の中で最もお前達を憎んでいるといってもいい、 御楯乃会の創設者だ」

「キリシマ......コウイチ......」

それが、御楯之会の首魁。米国への反抗をただ望む、狂える者たちを率いしもの。自らを犯した男の名はアメリアにとってはひどく恐ろしい響きであった。その名を反芻するように 静かに口にした。

「......そもそも、何が目的でこんなことやってるのよ? どう考えても日本転覆させる結果だけで利益なんてないし、意味不明だわ」

不意に、アメリアは気になったことを尋ねた。なぜこのようなことをするのか理解できない。思想犯にしても、革命を起こすことで自分達がテッペンに立とうとする意思も感じられない。だからこそ、不可解だった。だが、斎賀は少し馬鹿にしたように鼻を鳴らし、近くの 椅子を引くとそこに腰を落とした。

「お行儀よく損得で考えるからわからんのだ。知りたいなら教えてやろう」

そう言うと、斎賀はゆっくりと語り始めた——

ガダルカナルに続き南方の島々までも立て続けに失った大日本帝国は米英諸国に降伏した。しかし、これは見せかけである。鬼畜米英から亜細亜を解放し大東亜共栄圏建設を成し遂げるための、ブラフに過ぎないの である。その証拠に、宮城において敗北を認めぬ同胞が蹶起した。八紘一宇の精神と不屈の信念を抱く兵(つはもの)は今、この神国日本において健在だ。この武力結社“御楯之会”は悪逆非道なる米帝への怨嗟と、御国を憂うる言葉の数々を聞いて“気づきを得た”我らが桐島紘一陸軍大尉が終戦反対派の陸軍将兵をここに集結させ結成したのだ。


天皇陛下はこの世に実体を持ち御国を支配する神である。即ち“現人神”にあらせられる陛下は、古く神代の時代に日向より大和国を東征して“日本”という国を生み出した神武天皇の裔であり、更に遡ればこの世に光をもたらした太陽神“天照大御神”を太祖とする。なればその霊験のほんの一端たる“神風”をお吹かせになれば、偽りの勝利に沸く愚かなる 米帝を悉く討ち滅ぼすことができるはずなのだ。我等が帝国は神の国、小癪な連中に遅れは取りはしたがその真価は未だ発揮していない。帝国存亡を賭けた聖戦を否としたかの聖旨も皇国臣民を米帝の邪智暴虐より護る為の対応 に過ぎず、優しすぎるがゆえに選んだ苦渋の選択肢であったのだろう。ならば、未曾有の危機を以て真に存亡の刻が訪れたならば今度こそ陛下がその神威を以て 救国を導いてくださるのだ。


御楯乃会は、帝国勝利のための礎となること——すなわち、自らの誇りと身命を擲ち、帝 国に神風を呼び込むことを最終的な目標としている。どのみち生きて帰ることは叶わぬだろう。だが、勤王に尽くす帝国軍人たるもの命はとうに捨てている。神国、大日本帝国を不滅 とするためならばその身を擲つことに一切の躊躇いはない。構成人数は僅かに30人余——中隊にも及ばぬ吹けば飛ぶような兵隊に過ぎない。しかし、桐島紘一大尉の下で今こそ神兵となり、奴らに死してなお消えることなき永遠の恐怖を その骸に刻み込んでやるのだ。


我らは地獄を望んでいる。 我らは鉄血が三千世界を覆い尽くす絶望的な光景を望んでいる。


そして、神風によりそれが吹き消され、美しく輝く御国をこそ望んでいる。

帝国と米帝の間に破滅的な対立をもたらし、今一度生存をかけた絶滅戦争を起こす。多くの臣民が血を流し、地獄の業火が空までも焼き尽くす酸鼻極まる光景が広がるだろう。だが、それは神風を起こす為の必要な犠牲だ。洗脳的教育による日本支配を企む鬼畜共から解放された時にこそ真なる勝利がある。永遠に不滅なる皇国を作り出すことが、我らの持つ崇高な目的なのだ——


「くだらないわ」

話を聞いたアメリアは心底から呆れた調子で吐き捨てた。

「よしんばコレがうまく行ったとして、どうなるというの? 天皇が本当に天使ウリエルみたいなことができたとしても、私達が滅ぼされる前にあなた達が真っ先に滅ぼされるわよ。今度こそ再起不能になった日本を見ながら、酔っぱらったみたいな頭すっからかんの上っ面 だけの戯言を聞かされる天皇の身にもなって欲しいわね」

「だろうな、正直俺もそう思っている。開戦前に皇道派の連中が起こしたクーデターなど、 陛下に開口一番に“賊軍”と言われたことを若造共は気にも留めんだろうよ。......永田閣下を斬殺した事件といい、頭でっかちは極端に走っていかん」

反発されるかと思いきや、同調する斎賀にアメリアは訝しむような目を向けた。自らを取り囲み、侮蔑の目を向けてきた者たちとは全く違う反応。聞かれたらそれこそ“敗北主義者” とばかりに自己批判させられるだろうに、なぜこんな連中に付き従っているのか......わから なかった。

「......そこまでグダグダ言いながらなんで付き合っているの?さっきの話しぶりも半分棒読みだったし」

「はっ、ただの物見遊山だよ。あいつらがこれから何を起こし、そしてどうなるか見てみたい。それだけだ」

何処かニヤついたような微笑を返し、一瞥もくれずに官給タバコを吸う斎賀にアメリアは少し呆れた様子を見せた。

「あなた、気合が足りないんじゃないかしら。それでよく部下に示しがついてるわね」

「俺達はもう部隊でもなんでもない、そう思ってるのは奴らだけだ」

「言うわねあなた......文句言われないの?」

「やる気はないが俺は次席の立場だぞ? 手向かおうとする奴はおらん」

皮肉げに告げると、斎賀はタバコの火を灰皿に押し付けて消すと、ポケットからフルーツ の絵が描かれたサクマ式ドロップスの缶を取り出して放るようにアメリアに寄越した。

「それよりもほら、約束のドロップスだ。やたらと高かったから大事に食えよ?」

サクマ式ドロップスを受け取ったアメリアは小さくお礼を言おうとして、しかし警戒心が 解けないのか口を僅かにもごもごと動かし、しばし沈黙した後ようやく口を開いた。

「......あなたもあの人と同じなの?」

「誰と同じかと言われてるのかは知らんが、俺が何者なのかはお前さん自身の目で確かめたらどうだ?お嬢さん」

即答する斎賀は特に不快感もなく、彼女に軽い調子で返して手をひらひらとさせた。

「......信用なんてしないわ。こんなところの男なんてどうせ下劣なんでしょ、あなただってちょっとしたら私に乱暴するんでしょう?」

「嫌われたもんだな。まあ勝手に言ってればいい。俺は俺の仕事をさせてもらうだけだ」

「............」

そして、沈黙するアメリアをよそに斎賀は闇市で買い揃えてきた食事をテーブルの上に並べてゆく。

「貧相で悪いが夕飯だ。ああ、これはキンピラゴボウという日本の料理だ。木の根っこじゃないぞ?」


「知っているわ。バカにしないでくれる?」

軽口を叩きながら、アメリアは少し慣れない様子で箸を使い用意された夕食を食べ始め た。並べられた品目は蒸した芋とキンピラゴボウ、それから主食代わりのすいとんだ。

「......美味しくないわ」

すいとんを食べながら、眉をひそめた。それも無理もない。ダシの取れていない水っぽい汁に、捨ててしまうようなツルや葉っぱを入れて具材とし、団子は小麦粉をこねただけだ。団子を噛むと生地が歯にニチャニチャとこびり付き、不快な食感である。他の料理もお粗末なものだ、味などロクについていない。つい昨日まで文化的な食事で十分な栄養を取り、服の上からでもその大きさの程を伺える並外れて豊満な胸を始めとして男の情欲を誘う肢体を持つ彼女にはこの粗食はとにかくキツいシロモノだ。舌が拒否し、なかなか喉を通らないのを我慢して、出された水を飲みながら 必死に飲み込んでゆく。

「食えるだけありがたく思ってほしいがな。こっちは食うことにも事欠いてる」

「文句言ってもしょうがないのはわかってるけども......」

かなり不服そうな顔で、食事をした気にもなれぬまま空っぽの腹の中に食物を詰め込んで ゆく。何度か吐き戻しそうになるのをこらえながら、生きるための栄養を取り込むように ゆっくりと食べ進めていった。 贅沢三昧をしていたつもりはないのだが、それでもそれまでの生活がまるで別世界のように感じられる陰鬱な世界を目の当たりにしてここにはいない、誰かに対してひどく同情したような顔をしていた。薄暗いランプの香りに照らされる彼女の姿を、監視役の斎賀は壁に背 中をつけてじっと見つめていた。


食後、アメリアはあまり満足していなさそうな顔のまま完食した皿と食器を丁寧に置いて いた。一応空腹感は紛れたのか、何処かひと心地はついた様子だ。斎賀はそんな彼女から離れ、またもタバコに火を付けて紫煙を立ち登らせはじめた。

「......ところで、今日はもう仕事はないの?」

先程受け取ったドロップスをさっそく舐めながら、アメリアは何気なしに尋ねた。

「ああ、夜の見回りも今日は俺の仕事ではない。やるべきなどないから後は寝るだけだ」

「ふぅーん......じゃあ、ピアノでも聞いてもらってもいいかしら? どうせ暇なら私の気晴らしに付き合って。......ええと」

「......斎賀義孝だ。名前を聞いてなかったのか?アメリア・ハルゼー嬢」

「初耳。まあ、いいわ。じゃあさっそく」

アメリアはゆるりと立ち上がると、部屋に置かれていたピアノの前に向かうと深呼吸をした。そして鍵盤に向き合うと細い指先を軽やかに滑らせた。彼女が奏で始めたのは“楽聖”ベートーヴェンの“エリーゼのために”だった。静かに奏でられる愛のテーマ。始まりは何処かいじらしく小川のせせらぎめいて演奏されてゆくが次第に 曲調が弾んでゆき、何でもやれてしまいそうな最高に高揚した。が、それは突如として止まり、困難を前に苦悩するような激しきものになってゆく。それでもまた始まりのメロディー に帰結し、クラシックらしい余韻を残して演奏は終結した。 斎賀が黙って心地よい静謐に浸る中演奏を終えたアメリアはゆっくりとその手を離し、ため息混じりに口を開いた。

「......調律されてなくて気持ち悪いのだけど、これ」

静寂を破るアメリアの第一声は、なんとも憮然とした一言だった。

「ンン?俺には見事な演奏だと思えたんだが」

「......わからないの?」

アメリアは少々呆れたような顔をしてピアノの白鍵を幾つか緩やかに叩き、次いで黒鍵をかき鳴らす。そしていくつかの和音を奏で、やがて手を止めた。

「......音が揺らいでるの。何年調律してないの、このピアノ?」


チューニングずれを訴えるアメリアの言葉に、静かに耳を澄ましていた斎賀はしばし考え込む仕草を見せ、首を横に振った。

「俺に違いがわからんが......まあ、どうやらこの屋敷は長いこと使ってなかったみたいだからな。少なくともここに来た時は埃っぽくて仕方なかった、3年は手つかずだったはずだが」

「3年......かわいそうね、こんないいピアノなのに」

「焼かれて灰も残らんよりはこうして残っていて弾けるだけまだマシだろうさ」

斎賀の冗談めかした軽口にアメリアは何も言えなかった。

「それよりも......何かまた弾いてくれよ。この手のクラシックにはご無沙汰だったんでな」

「いいわ。じゃあ......シューベルトの曲でも弾いてあげるわ」

アメリアの細い指が鍵盤に触れる。滑らかに盤上を滑り、ピアノソナタ第13番が厳かに 響き始める。ピアノの心得があるならばそう難しくない選曲もあって彼女はソレを巧みに奏 でてゆく。柔らかく、包み込むような楽しげな旋律が部屋の中を満たし、軍人だった男の心 を癒やすかのようだった。まるで見えない妖精がこの部屋の中でダンスをしているような、 そんな不可思議で心躍るメロディー。

斎賀はいつしか煙草を灰皿に押し付けて、腕を組んで目を閉じた。料理を舌の上で吟味するように1音1音を堪能し、黙ってその演奏を身で感じていた。彼女の即興の演奏会は本職 のピアニストの演奏会には及ぶべくもない――が、音楽の心得に乏しい彼には十分過ぎる程 に心地よく、子守唄めいて優しいひとときだった。 「大したものだな、思わず時間を忘れた」

名残を残さぬ曲の終わりにパチパチと喝采が響く。ただひとりの聴衆は満足した笑みを浮かべ、見事に演奏してみせたピアニストを惜しみなく賞賛した。

「買い被りすぎよ。奏者もピアノも大したことないもの」

「いや?そう捨てたものでもない。少なくとも俺にとってはな。また、弾いてくれないか」

照れくさそうにするアメリアに斎賀は率直にリクエストした。それを聞いた彼女はウーン ......としばし唸るとそっぽを向いて、唇を尖らせる。

「......まあいいけれど」

素直ではない反応に斎賀はこれからが楽しみだというように微笑を口元に浮かべた。


夜はまだ続く、これから苦しみしか待っていないとしても、今この宵闇は優しいものだった。


神の国ではない人の国

Comments

ありがとう、ありがとう...!

肉バキューム

凄く良いストーリーでした! アメリアと義孝のやりとり、ええやん!! (≧∇≦)👍 ※語彙力足りなくて申し訳ない!

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