「天内、貴様らは全てを大義に捧げた。私は貴様達を育てたことを誇りに思う。貴様達こそ真の日本軍人だ。日本人のあるべき姿なのだ。必ずや神風は吹く。必ずや陛下の神通力が日本を救ってくださる」
天皇は宇宙唯一の最高神、宇宙統治の最高神である。
***
昭和二十年八月十五日正午
「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク…」
ラジオから流れる重大放送を、桐島大尉は直立不動の姿勢で聞いた。
しかし、その整然たる姿に反し、心中は決して穏やかではなかった。
彼の頭の中では台風の如く激烈な感情と思考とが渦巻いていた。
陸軍はこれまで徹底抗戦を叫び続け、来るべき本土決戦に備えて決死の覚悟を全軍に、国民に訴えてきた。それがなぜ?
國體護持が約束されない、実質無条件降伏であるポツダム宣言受諾など決して許されるべきではなかったはずだ。これに反対して宮城では近衛師団が蹶起したものの、終戦阻止に失敗したという。森師団長は蹶起将校らにより惨殺され、陸軍大臣阿南惟幾大将は自刃された。そして先程蹶起将校らも後を追うように自決したというが、この時点では詳しいことがわからなかった。
このクーデター未遂事件には、桐島にも参加するよう誘いがあった。しかし阿南陸相や森閣下が少壮将校らを諫めたという話を聞き、桐島もまた軽挙妄動を謹むべしという言葉に従ったのだった。
ただ今は無念の最期を遂げた同志らの後を追いたい気持ちだった。
結局のところ、真実はどうであったか? 蹶起将校らが言うように、講和派の政治家や軍人が命惜しさに陛下を説得し、本心とは違った決断を迫ったのかもしれない。日本を護ることを、國體護持を諦めて敵に差し出したのかもしれない。鈴木首相はバドリオだったのか?
天皇とは、天照大御神と同一身であり、宇宙最高の唯一神、宇宙統一の最高神である。天皇の御前に自己は無である。天皇は国家のためにあらず、国家は天皇のためにあり。士道、義より大なるはなく、義は君臣を以て最大となす…。
軍人としての哲学に、国民の生命のため、ましてや自己の保身のために國體護持を放棄するなどあってはならない。本土決戦に敗れずとも、必ずや神罰が下り日本民族は滅ぶであろう。ならば、この危機にこそ救国の神風は吹いて然るべきではなかったか。いや、本土決戦をして死中に活を求めずして、神風が吹く訳が無い。本土決戦のために戦力を温存し、結果として沖縄を犠牲にし、果ては新型爆弾の使用まで許したこの状況では、奇跡など起こりようもない。
それならば、神風が吹いて然るべき状況を、今からでも…。
桐島大尉は何かが取り憑いたかのように走り出し、陸軍士官学校を後にした。
一年前の昭和十九年四月二十日、士官学校を卒業した第57期生らは悉く戦場に散っていった。彼らに卒業証書を渡したのは校長である牛島満中将閣下であり、その牛島閣下も第三十二軍司令官として沖縄へ派遣され既にこの世にいない。
かつて自分にとって最高の栄誉であった所属部隊、近衛師団は叛乱部隊の汚名を着せられた。走る桐島大尉の胸中にはあまりにも悲痛な、声にならない絶叫がこだましていた。
その後も悲劇が桐島の心を揺さぶった。近衛師団の森師団長の棺の前で蹶起将校の一人、古賀参謀が自決していた。古賀参謀をさとしていたという田中軍司令官もその後二十四日、予科士官学校生徒らによる叛乱事件、埼玉県川口放送局占拠事件の鎮圧の後に自刃された。森師団長の殺害事件については謎が多いが、関わったとされる所沢の航空士官学校の将校もその後に航空士官学校の一部将校らと共に叛乱を起こすも失敗に終わり自決。
十七日には水戸教導航空通信師団の将校らの叛乱事件が起き、説得に当たった近衛師団石原参謀が射殺された。石原参謀もまた宮城事件に参加していた将校の一人であった。この叛乱も失敗に終わり、参加した将校数名は後に自決している。
十四日深夜より叛乱を起こしていた國民神風隊の佐々木大尉は十五日の夕方に憲兵隊へ出頭、しかし処罰されることなく解放された。
しかし直後に行動を共にした必勝学徒連盟の学生らは警察に逮捕されてしまい、佐々木大尉は行方不明となった。
十五日午後、東京の芝区愛宕山にて右翼団体、「尊攘同志会」が軍の決起を期待し籠城。しかし警察の突入により最後には首領らは手榴弾で自爆した。二十四日、これに呼応して鳥取県では「皇国義勇軍」が武装蜂起し県内主要施設を破壊、島根県庁を全焼させた。主要メンバーらは逮捕された。
徹底抗戦を叫んでいた厚木基地はその後も叛乱の機運が高かったが、小園司令官が持病のマラリヤが悪化して発狂。そこへ連合軍司令官マッカーサーが降り立ち、遂に諦めざるを得なかった。
そして九月二日、座間の陸軍士官学校にアメリカ陸軍第一騎兵師団が進駐した。
桐島は悲劇的な報せに身を引き裂かれる思いだった。しかしその思いが決意をより強固にした。終戦からの一ヶ月、準備に準備を重ねようやくその日を迎えた。彼にとっての大東亜戦争は終わっていないばかりか、むしろこれからが本当の戦いだった。
静まりかえっていた部屋の中に、正午の鐘の音がうるさく鳴り響いた。
「昼か。みんな何か食うか?」
沈黙を破ったのは津田だった。今夜運命を共にする御楯乃会の会員達がそれぞれ思い思いの姿で椅子に腰掛けていた。
広々とした洋室に大きなテーブル。テーブルの上には地図が広がり、その上には書き込みや駒があり現在の東京近辺の状況が示されていた。テーブルを囲む会員はスーツや見窄らしい国民服、埃っぽい学生服を着ている。この秘密の会議室に集まるために各々偽装していた。その中央に凛々しく、また威厳をもった軍装姿で深々と腰掛けている男がいた。津田の問いかけに誰もが答える前に、その男の方を注目した。守屋が先に口を開いた。
「教官殿、何かご用意いたしましょうか?」
教官と呼ばれた軍装の男、この御楯乃会の首領にして、会員ら陸軍士官学校五十九期生の元教官、絶対の存在、それが桐島だった。
「いや…」
遠慮する、と言いかけたところだが、これからことを起こそうというときに、部隊の長たるものが何も口にしないでは、部下達が食事できないではないか。万が一の時、腹でも切ろうものならその時は美しくありたかったが、そもそもそんな心配自体が弱腰である。そう思い直した。
「そうだな、多忙で食事どころではない者には悪いが、我々は頂いておこう。長い戦いになる」
守屋は目を輝かせながら大きな声で返答した。
「はい! 教官殿のお食事を御用意して参ります!」
守屋は浮き足立って部屋を出た。いつもならばこの役は桐島の当番兵とでもいうべき天内の役だが、今はハルゼー邸の監視役で不在だ。
皆やれやれという目線で守屋の背を追った。
「自分も行って参ります。すっかりガス欠です」
冗談を言いながら津田も続いて部屋を出た。彼は桐島隊をハルゼー邸付近まで輸送するトラックの運転手だ。飄々とした性格で誰とでもすぐ打ち解けることのできる彼は、今日というこの日のために陸軍中野学校出身の元将校を説得し、出来うる限りの訓練を受け満身創痍だった。徹底的に叩き込まれた遊撃戦の教えを心の中で反芻しながら、表情一つ崩さずに調理を始めた。
「滝」
桐島は椅子に座らず部屋の隅であぐらをかき、武器の整備をしている大男を呼んだ。身長180センチはあろう大男は、桐島隊攻撃班班長を任されていた。滝はゆっくりと立ちあがった。
「はい!」
「食事と一緒に全員にみ号剤と精力剤を配っておこう」
「はい! 青山、配ってくれるか」
み号剤とは、日本陸軍が当時使用していたビタミン剤である。夜間戦闘が盛んに行われるようになった戦争後期によく使用された。日中に服用しておくことで夜目が効くようになるというものだ。精力剤も同様に栄養剤の類である。いずれも別働隊である桐島隊工作班班長、岩崎が用意したものだった。岩崎は日本陸軍の空挺部隊、第一挺身団への赴任を熱望していたため、この手の話に詳しかった。
「…ああ、いいとも」
青山と呼ばれたスーツ姿の美男子が返事をした。青山は洗練された動きで錠剤を小さなアルミ皿に小分けして、皆に配った。
軍刀の柄を握りしめて地図を見つめる國枝の前にも小さなアルミ皿が置かれた。しかし急に青山の手が震え出し、錠剤がいくつかテーブルの上に落ちた。
「す、すまない…」
青山の顔色は急に青ざめていき、声も震えていた。國枝はそれを見て動じることもなく答えた。
「気にするな」
青山は同期生達の中でも特に優等生であり、常に冷静沈着、かつ美しい容姿である。その為しばしば女性の目を引いたが、本人はそれを決して鼻にかけず、不純な交際も一切しなかった。将来は連隊旗手…そう期待されもしていた。しかし、終戦の日に彼の信じていたものは失われ、それ以来情緒不安定となり、時折発作のようなものに襲われるようになっていた。しかし誰も彼をこの計画から外そうとは思わなかった。それほどに彼は仲間達から愛されていた。
國枝は錠剤を全て口の中に放り込んでボリボリと噛み砕くと湯呑みに入っていた茶で一気に流し込んだ。
國枝は寡黙な青年だが、この日は心の内で雄叫びをあげていた。
彼の手にする軍刀は実践的な剣術家であり、近代戦において進化した新たな剣術を編み出さんとしていた亡き父の形見だった。中国蘇州の軍刀修理工場で廃材の鋼鉄を利用して作られ、偶然にも生まれたという名刀、通称蘇州虎鉄。美術品としての価値はなく日本刀としては決して認められないその刀は抜群の切れ味と頑強さを誇った。國枝は大陸で無念の戦死を遂げた父の遺志と共にある。
各々が決心を固めながら、最後の昼食が静かに始まった。混ぜ物のない白米だ。一口一口を噛み締めながら、桐島はあと数時間後に始まる戦いを頭の中で想像した。どれだけ準備をしたところで、必ず想定外のことは起こるだろう。ありとあらゆる状況を想定しなければならない。恐らくこの場にいる者のほとんどが死ぬだろう。その顔をゆっくりと見渡した。士官学校の食堂を思い出し、懐かしかった。
「うまいな、やっぱり白米が一番だよな」
狗戒は勢いよく飯を掻き込んだ。そのうち喉に引っかかったか、むせ込んだ。
「おいおい、死ぬにはまだ早いんじゃないか」
篠原のツッコミに、一同がクスリと笑った。狗戒は茶をゴクゴクと飲みほすと、にやけながら、うっすらと涙を浮かべ再び白米を食べ始めた。
「妹や弟にも食べさせてやりたかった…」
狗戒は空襲により家族全員を失っていた。もう帰るべき家もない。義理堅く、人情味のある彼にとってこの戦いは命を賭すにふさわしい仇討ちだった。
「そうだな…」
篠原は大阪出身、暴れん坊の狗戒とは阿吽の呼吸でいつもブレーキ役をかっていた。観察眼に優れ的確な指摘のできる男である。その才を誰もが認めており頼りにされていた。一方で彼の本心は桐島の不穏さに気づいていたし、作戦自体に無理があることも重々承知であった。彼は同期達の、特に狗戒からの強い説得に応じたのだった。
皆が食事を終えたころ別働隊である特殊工作部隊第二班からの情報が届いた。冨永が読み上げる。
「特殊工作部隊第一班、第三班は予定通り行動中。第四班からの報告。GHQ本部にマッカーサー元帥移動中」
おお、という声が一同の口から漏れた。もしかすれば別働隊がマッカーサーの首をとるかもしれない。
「続いて、気象情報。かねてより接近中の台風が九州に上陸。かなり大型のようで今夜中に東京まで到達するだろうと…」
「神風だ!」
倉坂が叫んだ。すかさず冨永が怒鳴った。
「バカを言え!こんな神風があってたまるか!通信が遮断され火も上がらずでは作戦遂行は困難になるのだ!」
倉坂も言い返す。
「そんなことはわかっている。だが何があろうと決行は今夜なのだ。考え方によってはこの悪天候を利用すれば我々の行動を隠蔽できる。行動困難になるのは敵も同じなのだ。そう悲観的になるなよ」
倉坂の方を見ずに冨永は再び桐島の方を向いた。
「報告は以上であります」
「ご苦労、工作部隊には天候に関わらず計画に変更なしと伝えろ」
「はっ、計画に変更なしと伝えます」
「冨永、貴様のいう通り通信不良は厄介だ。一応機材の防水が確実か天内と遠藤に確認を徹底させよう。倉坂のいうことも一理ある。これをうまく利用するのだ」
「「はい!」」
冨永と倉坂の返事が被る。冨永は義兄が東京憲兵隊所属の抗戦派将校であり、その義兄を通じて憲兵隊抗戦派勢力と内通していた。天皇を絶対の存在として仰ぎ、命令であればあらゆるものを犠牲にできる忠勇の軍人であった。
一方で倉坂は人情味にあつい男であり、不要な犠牲を嫌った。常に下士官、兵と共にあり、戦場では先頭にたつ、そんな中隊長になることを目標としていたし、天皇もまた臣民と共にあって欲しいと願っていた。冨永はそんな倉坂の考え方を社会主義的と批判し、二人はしばしば衝突を繰り返していたのだった。
津田が窓の外を見ながらぽつりと呟いた。
「内も外も騒がしくなってきましたね」
桐島は外の方に目をやった。窓が強風でカタカタと音を立て始めていた。
台風接近により、風は次第に強くなり轟々と音を立てて吹き付けてきた。更に雨も混じりいよいよ嵐になってきた。情報によれば九州から関西はかなりの被害が出ており、特に広島の被害は尋常ではないということだった。予想通り通信状況の不調があり、午後から別働隊各隊の状況が不明瞭となった。しかし今は信じるしかない。
装備を整えた御楯乃会の会員らが、携帯天幕を被って強風に耐えながら整列した。滝は不動の姿勢をとり、桐島に敬礼した。
桐島はマントの裾をなびかせながら彼らの正面に立ち、答礼した。
「桐島隊攻撃班、工作班共に装備、健康状態異常無し!」
「よし、準備はいいな」
「準備よし!」
桐島は一同の顔を見渡した。嵐にかき消されまいと、桐島は声を張った。
「遂に来たるべき時がやってきた! 講和派の謀略による恥辱にまみれた終戦工作から一ヶ月、多くの同志が志半ばで倒れる中、厳しい訓練、任務に耐え、よくぞここまでついてきてくれた! 諸君らに改めて感謝の意を述べたい!」
その言葉を聞いて、涙を浮かべる者、嗚咽を漏らすものもいた。ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。桐島の言葉でいくばくかその想いは報われたのだ。
「國體無くして日本民族無し! 我ら純忠の士は民族存亡の危機の最前線に蹶起するものである! 義は我らにあり! 我らこそ真の御楯なり! 」
言い終わると、桐島は不動の姿勢をとって滝に命令した。
「命令! 攻撃班、工作班は直ちに出動、明日0時をもってハルゼー邸へ攻撃開始、アメリカ海軍第三艦隊司令長官、ウィリアム・ハルゼー大将を拉致せよ!」
滝は不動の姿勢をとり敬礼、素早く復唱した。
「桐島隊攻撃班、工作班は直ちに出動、明日0時を持ってハルゼー邸へ攻撃開始、アメリカ海軍第三艦隊司令長官、ウィリアム・ハルゼー大将を拉致します!」
「よし!」
滝の号令が響く
「気をつけ! 教官殿に敬礼! 頭―ッ中ッ!」
一糸乱れぬ動きで一同は桐島に敬礼をした。これが最後の、全員揃った部隊敬礼になるだろう。
桐島は答礼した。いつもより少し長い答礼だった。全員の目を見た。闘志に漲る美しい目だった。
「直れーッ!」
部隊は再び不動の姿勢に戻った。
「乗車!」
桐島の号令と共に全員がトラックに乗り込んだ。
「出発!」
津田がアクセルを踏んだ。
泥を跳ねながら、トラックが死への旅路に進み出した。もう後戻りはできない。
その少し前、ハルゼー邸を監視していた天内と通信手の遠藤は困ったことになっていた。
二人はハルゼー邸から二百メートルほど離れた無人の屋敷の庭に陣取っていた。長らく無人で手入れがされていないため、庭は雑草や木々が生い茂りお化け屋敷のようだった。住み心地は山賊の寝ぐらのようだったが、二人が身を隠すには絶好の物件だった。天内は携帯天幕を被っていたが風で吹き飛ばされそうになりもうずぶ濡れだ。
「変だな…」
天内は明らかに焦っていた。ハルゼー提督が屋敷から出てこないのだ。情報によれば、今日はイギリス艦隊からパーティーの招待を受けて午後にハルゼー邸を出発、深夜にはいつものように泥酔して帰宅するはずだった。
しかし今日は悪天候のためか、あるいは気分が乗らなかったのか、迎えの車が来ることはなく、ハルゼー本人が外に出た気配もない。
警護のためのジープが2時間おきに屋敷に立ち寄るが、今日は一台だけ別車両が立ち寄った。雨天で視界が悪く細かい識別はできなかったが、将校2名、下士官2名がレインコートを着て屋内に入った。台風接近のため何か緊急の連絡があったのか、十分ほどして将校1名、下士官2名がまた車両に乗って足速に去っていった。
見落としがなければ小柄な将校が1名まだ屋内にいることになる。ひょっとしたら部下を招いて一席設けているという可能性もある。いずれにせよ敵の戦力に将校が1名加わったことになる。
「やはりダメだ!調子が悪くなってきたぞ」
遠藤が後ろから声をかけてきた。元より携帯可能な小型の無線機は性能が良くないのだが、雨の影響で更に通信が困難になってきた。
「一度屋敷内を見に行くべきか…」
「早まるな天内、ここで捕まってみろ、何もかも終わりだぞ」
「しかしもしハルゼーがいなかったら、作戦は無意味なものになってしまうじゃないか!」
「覗きに行くといってもこの天候で偽装のしようがないし、屋敷の周りは敵だらけだ。この雨の中で民間人に偽装して接近するのも不審に思われる。少なくとも昨日から提督は外に出ていないのは確実だろう?」
「いや、警護に捕まりそうになったら自決してもいい。俺は行くぞ」
「ダメだダメだ! そんなことになれば敵は電話を使って増援を呼んでしまうぞ。そうなりゃ教官殿御一行は一網打尽だ。冷静になって状況をよく考えろ!」
遠藤の言うことはもっともだった。機械いじりが好きで神経質、気難しい男だが細かい点によく気がつく男だった。
「そうだな。貴様の言うとおりだ。とにかくできることをやるしかない。なんとか屋内の様子がチラリとでも見えれば良いのだが…」
「もしもの時は俺も一緒に腹を切ってやるよ。とにかく監視を続けよう」
更に遡ること数時間前、困っている男がもう一人いた。
「なんてこった。これじゃ間に合わないぞ」
アメリカ海軍、スナイダー中佐はハルゼー提督の送迎に向かう途中で事故にあった。突然道が崩れジープがハマってしまい後続の護衛を載せた、ジープより一回り大きい輸送トラックが避けようとしてハンドルを切りそのまま横転してしまった。幸い怪我人はなかったがどちらも動けなくなってしまった。
「なんだって日本の道路はこんなにひどいんだ…」
それは我が軍が空襲して破壊したからだ、と胸の内で指摘して彼は頭を抱えた。
更に後からついてきたジープにはハルゼー提督の娘、アメリア少尉が搭乗しており、こちらを睨んでいた。
そのジープからドライバーのフェルチ二等兵曹が降りてきた。
「中佐殿、ここで立ち往生しているとかえって危険です。こっちにはお姫様も乗っているんです。ともかく事故車は他に任せて我々だけでも急いで提督のお宅へ向かいましょう」
「そうだな。親父が怒ったらまた戦争を起こしかねない」
雨に打たれ泥だらけになった部下たちに手を振ると、大きなブーイングが起きた。
「すまないな」
スナイダー中佐は放り出された部下たちを尻目に、ジープのドアを開けた。
「失礼しますよ、アメリア少尉」
「気を使わなくて結構よ。中佐殿」
助手席に乗っていたのはレインコートに身を包んだ将校、アメリアだった。ハルゼー提督のご息女とあっては誰もが扱いに手を焼く、紛れもない腫れ物である。
「軍曹、運転を代わろう」
「ええ? しかし…」
レディは丁重にもてなす必要がある。後部座席から話しかけるのも妙だし、雨の中で一度降りていただいて後ろの座席に移ってもらうというのも失礼だろう。それに自分が運転して助手席にお姫様が座っていたら良い絵になる。そう考えての判断だった。
「運転は軍曹のままでいいわ」
アメリアは冷たく突き放すように言った。
「なぜです?」
「あなたさっき事故を起こしたじゃないの」
フェルチと後部座席に座っていた護衛のローン三等兵曹、スワンソン二等兵曹は吹き出した。
「しかし、私が同乗しないわけにもいかないのですよ」
「なら黙って後ろに座って」
スナイダーは渋々後部座席の方を見た。ローンがまだ腹を抱えて笑っていた。
「ローン三等兵曹、ちょっと降りてくれないか」
「はい?」
ローンが降りると、スナイダーは雨に濡れたままドカンと後部座席に座った。隣のスワンソンに水飛沫がかかったが、彼は何事もなかったかのように正面を直視して動かなかった。
「ではフェルチ、車を出してくれ」
「イエッサー」
「安全運転でな」
外ではローンが雨に打たれながら、そりゃないよという顔で見送っていた。
無言のドライブの後、ジープは二箇所の検問を通り抜けてハルゼー邸へ到着した。
雨に濡れたくない一心で四人はレインコートを頭部まで引っ掛けて足速に屋内へ入った。そこへ既に一杯飲んでいるハルゼー提督が出迎えた。
「アメリア! 帰ってきたな!」
ハルゼー提督はアメリアに抱擁した。
「お父様! もう飲んでらっしゃるの? パーティーの席で失礼のないようにね」
「やれやれ、相変わらず手厳しいな。それもこれもスナイダーが私を待たせるからだぞ」
ハルゼー提督はスナイダーを睨んだ。
「申し訳ありません閣下、少々事故がありまして…」
「お父様、スナイダー中佐殿が、事故を起こしたのよ」
「なんだと?」
この小娘、とスナイダーは心の中で舌打ちした。
「その、路面状況が悪く…」
スナイダーは観念して事故の様子を控えめに説明した。
ハルゼー提督は大笑いしながら聞いていた。
「スナイダー! やっちまったな! こうしちゃおれん、早く現場を見にいこう! 詳しいことは車内で報告してくれ! レインコートがないんだ、フェルチ、貸してくれ」
ハルゼー提督はフェルチからレインコートを乱暴に受け取ると、頭から被って早々に車の助手席へ乗り込んでしまった。
「閣下!」
慌ててスナイダーが運転席へ乗った。
「貴様事故ったんだろ!」
ハルゼー提督に運転席を追い出されたスナイダー中佐は再び後部座席に乗った。フェルチとスワンソンは目を見合わせてあわててジープへ乗り込んだ。
こうして騒々しく一台のジープがハルゼー邸を後にした。スナイダー中佐は車内で事故の説明をせがまれ、何を言っても馬鹿にされ笑い物にされる地獄のドライブとなった。しかし彼にとっての地獄はこれからだったのだが、この時は知る由もない。
『九月十七日二十三時頃』
トラックを隠しおえた桐島隊は、静まりかえった山手町住宅地の路地から路地へ移動し着実にハルゼー邸へ近づいていた。ハルゼー邸へ行く途中には検問が二箇所、ハルゼー邸付近にはパトロール車一台が常に巡回しており、ハルゼー邸に隣接した家屋には警護兵二十名が常駐している。検問所、ハルゼー邸、警護兵の詰所には電話機があり、通報があればアメリカ海軍だけでなくMP、アメリカ陸軍の部隊が治安出動するだろう。更に言えば、大きな爆発音がすれば関内の焼け跡、接収された山下公園に立ち並ぶカマボコ兵舎からアメリカ兵が殺到する。
狭い路地を抜けて行く途中、トタン板で雨を凌ぐ浮浪者がふと目を覚ました。
「あんたら、何やって…」
声を上げる前に、浮浪者の首が転げ落ちた。國枝が蹴飛ばすと、首は側溝に落ちた。國枝が刀を抜く瞬間を誰も見ることができなかった。
検問の一箇所はなんとか徒歩で迂回できる。しかしもう一箇所が問題だ。どうしても通らなくてはいけない。桐島は突入のタイミングを待った。
同時刻、アメリカ軍検問所内。
ラッセル上等水兵が電話の受話器を取り、定時連絡を行っていた。
「こちら第二検問所、定時連絡、異常無し、どうぞ」
「了解。酷い嵐になる。注意しろ。通信終わり」
簡単なやり取りの後、ガチャリと通話は切られた。
ぼんやりと外を眺めてみるが、雨が強くよく見えない。
「これからもっと酷くなるのか。クソ…」
それにしても、暇だ。交代が遅くないか。その時、詰所の方から何か鈍い音がした。誰かが隠れて酒でも飲んですっ転んだかな。呑気に構えていたラッセルはようやく異変に気づいた。詰所の方を見ても人影が動いていない。ゲート付近にも誰もいない。慌てて受話器を手に取ったが、電話は通じていないようだった。まさか。突如、背後のドアが開いた。振り向いた瞬間、喉元に刃物が押し付けられ熱い衝撃が走った。すぐに力が抜け立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。やがて寒気に襲われたかと思うと、彼は二度と動かなくなった。
岩崎は返り血を拭うと、外に向かって叫んだ。
「守屋! 電話線は切ったか!」
外で三式戦車地雷を設置しながら、守屋が返答した。
「切った!」
「よし! これからは時間との勝負だぞ!」
岩崎は大きく手を振って桐島に合図を送った。
桐島を先頭に、隠れていた攻撃班が続々と姿を現した。
堂々とした足取りで検問所を通り過ぎていく。
「守屋! 廣瀬! 俺たちも行くぞ!」
「応!」
詰所から廣瀬も返事をした。廣瀬は由緒ある軍人の家系で4兄弟の末っ子。父は参謀としてビルマ戦線で活躍するもビルマ義勇軍の叛乱で戦死。長男は中国大陸で戦死、次男は南方戦線で消息不明。三男は特攻隊員として沖縄の空に散った。将官だった祖父は心労のあまり倒れ、終戦の報せを聞いて服毒自殺してしまった。自分の誇りを何もかも奪い去った敵を恨み、父や兄弟が命を賭して守った皇土と國體を敵に明け渡す講和派を心の底から憎んでいた。広瀬の手には血塗れの小太刀と、まだ銃口から硝煙のゆらめくブローニングオート5が握られていた。
これは自動式五連発の散弾銃であり、猟銃として日本でも多く流通していた。近接戦闘では絶大な威力を誇る。
雨と風の音が銃声をかき消していた。近隣の住民も嵐から身を守るため雨戸、カーテンなどで硬く家を閉ざしていたために彼らの行動は人目につくこともない。
終戦後、アメリカ軍は横浜を日本上陸の拠点とし、横浜市の実に七割に至る土地を接収していた。周辺地域は強制退去させられた住民、復員兵や帰国した一般人ら失業者で溢れかえり、路上生活者の数は最大で三千人を超えていた。この静寂に包まれた住宅地は、今日、明日を生きることで精一杯の日本人の世界とは別世界である。
ジープが一台、ゆっくりとその住宅地をパトロールしていた。運転していたウェック上等兵はゆっくりとブレーキを踏んで車を止めた。
後部座席からバトラー二等兵が覗き込んだ。
「どうしたっていうんです?」
「見てご覧なさいよ」
助手席のホーガン伍長が指を刺した。道路のど真ん中に人が倒れている。服装から見てアメリカ兵らしかった。近くにはビール瓶が転がっている。
「参ったな…バトラー、ハリスン、同胞を助けに行ってやってくれ」
ホーガンは防水キャンバスのフニャっとしたドアを開けて車から降りた。続いて、助手席を倒して狭苦しい後部座席から兵士2名も外へ出た。ジープは開放的な車だが、屋根とドアなんてものをつけるとずいぶん息苦しい車になる。
「台風の中パトロールだなんてただでさえバカバカしいというのに、酔っ払って道路とキスするなんざとんだ大馬鹿野郎がいたもんだ」
ホーガンは愚痴った。一度も戦闘に参加せず英雄になり損ねただけでなく、戦争の後始末でしばらく帰国もできそうにない。おまけにこの国の湿度ときたら。住民たちのアメリカ兵を見る目も冷たい。もううんざりだ。
「大丈夫か?」
バトラーが倒れている男を仰向けにすると、男は右手に隠し持っていた拳銃で覗き込んでいる二人の脳天目掛けて発砲した。
「ああっ!」
ホーガンは思わず悲鳴をあげて助手席に乗り込んだ。
「ウェック! 車を出せ!」
運転席を見ると、ウェックは首からあふれる血を両手で止めながらゴボゴボと苦しんでいた。その瞬間、背後に冷たい気配を感じた。
振り向くまもなく、後部座席の何者かにホーガンは口を塞がれ、銃剣を突き立てられ死亡した。
桐島隊工作班の3名は4名のアメリカ兵の死体を道路脇に隠すと、すぐにジープに乗り込んだ。途中、攻撃班を追い抜いた。
追い抜きざま、岩崎が得意になって桐島に声を掛ける。
「お先に失礼します!」
その顔は返り血で赤く染まっていた。
ジープが過ぎ去ると、今度は正面から天内と遠藤が走ってやってきた。
「お待ちしておりました!」
「長いこと苦労をかけたな」
「いえ、まずご報告いたします」
神妙な面持ちで天内が現在の状況を説明した。あれから隙を見て別の建物や高所から屋内を覗こうとしたが、結局ハルゼーを確認できなかった。
同じ頃、別働隊の特殊工作部隊15名が各々の配置で戦っていた。
狼煙をあげるのは第5班の役割だった。
第五班の大河と共に東京に結集したのは、桐島隊攻撃班の竹下の叔父、元海軍大尉宮本次郎兵衛率いる赤誠義勇隊30名である。
宮本は歴戦の軍人。大戦中に左腕を失い退役したのだが、本土決戦のために在郷軍人を中心に組織された特設警備隊の中隊長を志願。
終戦時に徹底抗戦を呼びかけ叛乱を起こそうとしていたところを竹下に説得され、今の今まで待ち続けていた。
この一ヶ月の間に同志は減り、今はたったの30名しか残っていない。だが宮本は竹下に「どうか昭和の赤穂浪士となってください」と懇願され、今や完全に自分を赤穂浪士に重ね合わせていた。
「大河君、本当なのだな!」
「はい! 間もなくです!」
「本当に連合軍の悪党どもが、陛下のお命を狙っておるのだな!」
「はい! 今や政治家も警察もマッカーサーの命令に付き従う不忠者の群れです! 陛下を宮城からお救いした後、必ずや同志一同の手で奸臣共を討ってみせます!」
同時刻、都内を一台の自動車が皇居に向かって走っていた。乗っているのは桐島隊攻撃班冨永の義兄、東京憲兵隊所属の市原憲兵大尉とその部下たちだった。
「大尉殿、本当に何か起きるとお考えですか」
「弟達のよこしてきた計画書な。どうやら紛れもない本物のようだ」
計画書とは、御楯乃会特殊工作部隊第4班、伏見が諜報活動中に入手したものだった。ソ連、中国共産党など共産圏との対立が深まる中、アメリカを代表する資本主義勢力は日本をどう利用するかが課題となっている。当初軍政を敷くはずだった日本の主権を認め、民主化を進める中、天皇をヒトラーのように戦犯として処刑をするのは得策ではない。
しかしこの戦争で失われた膨大な犠牲の責任を取らせるべきだという声は今でも決して少数派ではなかった。
中にはアジア人に対する強烈な差別意識から、日本人を根絶やしにしてもいいとすら考える者も少なからずいるのだ。
一人の人間である天皇を神として祀り、死の呪いを振り撒いた悪魔の国として、決して許さない敬虔な宗教心を持つ者もいるだろう。
そういった憎悪の勢力が製作したであろうものが、軍事裁判で天皇を葬れない場合に実行される、この「天皇暗殺計画」こと暗号名「ゲヘナ作戦」である。
既に連合軍内部では議論が進んでおり、天皇を処罰しようという意見は少数であるはずなのだが。
今や権限の無い憲兵隊、それも市原と同調していた抗戦派勢力の調査の結果、ゲヘナ作戦の計画書に名を連ねた連合軍将校は実在する人物で、確かに不穏な動きもあった。
いずれも日本人に対して差別的で、強い憎悪を抱いており、熱心な宗教家もしくは妄想癖のある人物達だった。だが、実行力があるのか確信はなかった。弟の話では、もしもの時は憲兵隊一丸になってこれを阻止してほしいとのことだったが…。
東京憲兵隊は現在、不足している警察力を補うために治安部隊として武器の携行が許されており、都内各所の警備に当たっている。
終戦後、憲兵隊の内部では高級将校が自決、あるいは戦犯として逮捕、その逮捕を恐れて逃亡するなど、惨憺たる状況でかつての面影はない。
かくいう自分とて、明日は我が身だ。後悔はないが、この手は多くの血で汚れている。
「大尉殿」
部下の呼ぶ声で市原は我に帰った。
「万が一の時は、どうしますか」
「無論、徹底抗戦あるのみだ」
東京に不穏な動きがある中、埼玉県の川口放送所に第一班、浦賀港に第三班が既に行動中だった。第一班はラジオを通じて全国に決起の呼びかけを、第三班は海上に浮かぶ復員船上で待機する復員兵達の説得に向かっていた。
そして情報戦担当の第四班が闇夜に紛れ謀略を巡らせていたのだった。
そして、時計の針は遂に〇時を差した。
『深夜〇時』
突如として一台のトラックが、警備に当たっていた皇宮衛士らを轢き殺しながら半蔵門に突入した。突入と同時にトラックは満載した爆薬と共に大爆発を起こし、火柱をあげた。
その火柱を見上げながら、宮本は悔しそうに顔を歪めた。
「ええい! 半蔵門か!」
「宮本隊長!」
「大河君、君を信じて良かった。私もついに死に場所を得た!」
宮本は軍刀を抜いて高く掲げた。
「赤誠義勇隊は直ちに天皇陛下をお救いすべく半蔵門へ急行する! 早駆けーーっ! 前へーーっ!」
桐島はハルゼー邸から約四百メートルの距離にいた。既に部隊は配置についている。
桐島が腕時計の針が〇時を差したことを確認すると、羽織っていたマントを翻して軍刀を抜いた。
「各班、撃方初め!」
桐島の号令と共に、最初の一発が天内の九九式短小銃から放たれた。
九九式短小銃は、明治より日本軍に採用されていた三八式歩兵銃の後継にあたる新式小銃である。威力向上のため三八式より大型の7.7ミリ弾を使用し、機動性向上のため長さも短くされた。昭和十六年より生産が開始され、大東亜戦争では最前線で戦う部隊や精鋭部隊に優先して配備された。
続いて青山が撃った。
たちまちハルゼー邸の入り口にいた警備兵2名が倒れる。
裏口の警備兵2名は國枝が斬殺。直後に屋敷内の電気が消えた。岩崎が電話線を、廣瀬が電線を切断していた。
慌てて玄関から飛び出してきた警備兵を待ち構えていた滝が銃剣で突き殺す。
「あと四人か」
桐島が玄関から堂々と屋敷へ上がり込む。
滝は暗闇の中でも迷うことなく真っ直ぐに奥の部屋へ向かった。アメリカ兵がどうしても繋がらない電話機をガチャガチャと操作している。アメリカ兵が悲鳴を上げる前に滝は突き殺した。
裏口から入った國枝、津田、遠藤が、警備兵の仮眠室に向かった。
交代要員が寝ぼけ眼でこちらを見ていた。
「ーーっ!」
誰かが悲鳴をあげたがすぐに静かになった。
「一階、制圧しました。ハルゼーはいません」
滝が桐島に報告した。
「二階か」
桐島は先頭に立って階段を登った。そして人の気配を感じ、ドアを蹴破った。
「動かないで!」
ベッドを横倒しにして身を隠しながら、一人の少女が拳銃をこちらに向けていた。その銃口は真っ直ぐこちらの心臓を狙っているが、指先は震えていた。そのか細い指が動くより早く、桐島は左手に握っていたブローニングM1910を撃った。
「きゃあっ!」
悲鳴とともに少女の握っていたコルトM1911は弾丸に弾かれ部屋の隅に飛んでいった。少女は右手の痛みに顔を歪めながら両手をあげた。
「あなた達は一体何者なの?」
「質問はこちらからする。貴女はアメリア・ハルゼーか?」
「…そうよ」
「お父上、ウィリアム・ハルゼー閣下は今どちらに?」
「それは言えないわ」
「このお屋敷にはいらっしゃらない?」
「それは…」
「質問にお答えください」
桐島は銃口を彼女の顔に向けた。
「…ここにはいないわ」
「間違いありませんね」
「本当にいないわ!」
「信じましょう…津田、拘束しろ」
アメリアは床に伏せられ、縄で縛り上げられると全く身動き一つ取れなくなった。
桐島は腕時計を見た。時間がない。部下達の顔にも焦りが見えた。
「攻撃班! 5名連れて警備兵の詰所へ向かえ! 全員始末しろ! 工作班は予定通り地下道を探して爆薬を設置せよ!」
「はい!」
「工作班! 爾後の行動にかかります!」
岩崎は持ってきた大量の黄色薬を取り出すと守屋、廣瀬に配った。
「天内、遠藤、篠原、倉坂、津田は残ってハルゼー提督を探せ。残りは俺についてこい!」
滝は攻撃班を引き連れてハルゼー邸に隣接する警備兵達の詰所へ向かった。ここまで被害もなく来られたのは運が良い。できれば敵の増援が来るまでの間、こうありたいものだが…。滝はそう思いながら銃剣についた血を拭った。
天内は必死にハルゼー提督を探した。しかしどこを探しても見つからなかった。天内は嗚咽を漏らしながら桐島の元へ駆け寄った。
「教官殿…申し訳…ありませんっ…!」
「気を病むな。こうなっては仕方あるまい。無念だがハルゼー提督は断念せざるを得ない。だがまだ我々の手中にはアメリア・ハルゼーがあるのだ。交渉材料として大いに利用させてもらおうじゃないか」
「し、しかし…」
桐島は力強く天内の頬を引っ叩いた。天内はハッとして我に帰った。
「どうだ、気合が入ったか」
「はい!」
攻撃班は警備隊の詰所を取り囲んだ。ハルゼー邸にいた九名を除けば、あと十一名が詰所で就寝しているはずだ。
「ガス弾を使う。あか剤からだ。」
滝は國枝に向かいそうつぶやくように言うと、直径8センチのガラス玉を雑嚢から取り出した。中にはジフェニルクロロアルシン、くしゃみ剤が入っている。ガラス瓶が割れればたちまちガスが発生し、ガスは鼻、喉、目などの粘膜に強い刺激を与え、くしゃみや咳、嘔吐、呼吸困難などの症状を引き起こす。
滝は鉄帽を一度脱ぐと素早く防毒面を着用した。重い防弾板入りの防弾着がしっかり固定されているか確認し、銃剣を抜いた。
屋内に侵入すると、広い寝室で寝台を並べて十名が寝ていた。そこへガス弾を投げ込んでドアを閉めた。ガシャン、というガラスの破裂音がした後、間もなく兵士たちの咳き込む声やうめき声が聞こえた。
窓を閉め切った室内だ。誰も彼も苦しみ悶えながら、立ち上がることが出来ない。
その時、階段上から足音がした。下士官らしい男が拳銃を抜いて一発発砲した。アメリカ軍のコルトM1911自動拳銃は45口径。当時としては大型の部類になる拳銃弾で、相手の動きを封じるパンチ力に優れていた。滝の体に強い衝撃が伝わり一瞬よろめいたが、弾は防弾着に弾かれ壁に刺さった。滝は腰に下げていたモーゼル大型拳銃を抜いて一発撃ち込んだ。
中国の軍隊が好んで使用したモーゼル大型拳銃は、日本軍に大量に接収されるなどして日本軍人にも利用された。初速が早く高威力の拳銃弾を使用し、取り外し可能なストックを併用すると有効射程は200メートルまで伸びる。そのため騎兵用の銃として代用されることもあった。
ドタドタと音を立てて、頭の半分が変形した敵が階段を転げ落ちた。
滝は再び寝室のドアを開けると、換気のためにガラス窓を何枚か割った。
そして次々に床で悶え苦しむ敵に銃剣を突き立て殺害していった。四人目で銃剣が刺さらなくなったので残りは銃声を出来るだけ小さくするため、拳銃を押し当てて射殺した。
返り血まみれの滝は詰所から出ると、防毒面を脱いで外の空気を思い切り吸い込んだ。
わずか五分程の出来事だった。
***
<下>に続きます。
今回の文章は、拙作に協力してくださっている方がプロットとして執筆してくださったものです。
肉バキューム
2023-11-25 00:19:19 +0000 UTCリスワン
2023-11-24 14:36:10 +0000 UTC