酷く久し振りに、ちゃんとあいつの声を聴いたような気がした。 「壱畝君、これ。……先生から」 そう目の前に差し出された数枚のプリントは、朝方担任の喜多山に「失くしたからコピーが欲しい」と頼んだものだった。 生白く細い指、うっ血したような跡が残った細い手首。抑揚のないぼそぼそとしたその声は、他のクラスメイト達の声に搔き消されそうになっていた。 できることならば、俺に話しかけたくもないという感情を隠そうとすらしない齋藤佑樹――ゆう君に思わず笑ってしまいそうになる。 「まさかゆう君が持ってきてくれるなんて」 「たまたまそこで頼まれただけだよ。……それじゃあ」 今すぐにでもこの場から立ち去ろうとしたがるゆう君。気付けばその細い手首を掴んでいた。 中学の頃よりも多少は骨は太くなっているようだが、それでも簡単に捉えることが出来てしまう頼りなさは変わらない。ぐっと力を込めた指の下でゆう君の体が跳ね上がるのが直に伝わってきた。 「は……離して、壱畝君」 「前々から思ってたんだけどさ、あの先生ってもしかして俺達のこと仲良しだと思ってるんじゃない」 オレンジブラウンに染められた前髪の下、こちらを見ようともしなかったその暗い目が揺れる。自分の性格も顧みずに派手なヘアカラーにするから余計表情の暗さが際立つことをゆう君は考えてすらいないのだろう。 なんて思っていたとき、先程まであちらこちらと泳いでいたゆう君の視線がこちらを向く。 「……離して」 相変わらずか細い声だったが、俺の耳にはしっかりと届いていた。騒がしい教室の中、ゆう君の声だけが鮮明に聞こえる。 ――俺は、ゆう君のこの目が嫌いだった。 ――俺は、ゆう君のこの声が嫌いだった。 「立てよ、ゆう君」 お前が俺に逆らうことは許さない。 ◆ ◆ ◆ 「ッ、が……!」 足元でサッカーボールみたいに跳ねるゆう君の身体をただ見下ろしていた。 この学園は内装や設備には無駄に金を掛けていることには間違いないようだ。清掃の行き届いたトイレのタイルの上、腹部を守るように腕で覆い背を丸めたゆう君。乱れた前髪の下、痛みを耐えるように歪んだその顔を覗き込む。 「ゆう君」 逃げようとするその肩を掴み、床へと押し付けるようにそのままゆう君の上に座り込む。その腹を踏みつけるように体重をかければ、ゆう君の身体が硬直する。 「っ、ぉ、りて」 「そうじゃないよな? 人にお願いするときは敬語使えっていつも言ってるだろ」 「っ、ぅ゛ぐ」 踵を浮かせ、爪先に全体重をかける。腹にめり込む爪先。藻掻くように人の足にしがみついてくるゆう君だが、これで本気かと疑いたくなるほどその抵抗は弱々しい。 「は、が……ッ!」 「離して、じゃねえだろ。お前が俺に命令するなんて何様のつもりだ? 転校してデビューしたつもりか知らねえけど、おかしいよなぁ。なんでお前そんなに俺に偉そうなわけ」 前髪を掴み、無理矢理顔をあげさせた。苦痛でびっしょりと汗を滲ませ、歪んだゆう君の顔、その目がこちらを睨んだ瞬間、またあの厭な感覚が下腹部に降りてくる。ずん、と重く、煮詰まったような感情の小石が積み重なっては大きな山になっていく――俺はこの感覚が好きではなかった。 感情の波に足を取られ、動けなくなる。それを振り払うように俺は目の前のゆう君の横っ面を思いっきり殴った。ゆう君の細い悲鳴とともに骨同士がぶつかり、削れるような痛みに脳が痺れていく。 「っ、ふ、ぐ……ッ」 「……なにが、壱畝君だよ」 「や、めて……っ、壱畝く……ぅ゛……ッ」 「ハルちゃん」 「っ、壱畝く……――」 白いシャツの襟から伸びる、その首筋に手を伸ばす。瞬間、暴れ出すゆう君の身体を抑え込んだまま手の下の細い首にもう片方の手を添えた。浮き上がった喉仏が上下し、手のひらの下、生き物みたいに跳ねる首筋からゆう君の鼓動と熱が伝わってくる。 「ゃ、……っ、め、て……っ」 ぼろぼろと瓦礫のように崩れたそれは破片となり、小石のように転がっては腹の底に溜まっていく。 震え、掠れた声。暴れようとする度に身体の下でビクビクと跳ねるゆう君は魚みたいだと思った。 「……なに、怖いの? ……へー、さっきまであんなに強気だったくせに」 まだ本気で締めていない。ただ軽く気道を押し潰し、圧迫してるだけにも関わらずゆう君の身体はがちがちに固くなっていた。防御する体勢。今のうちに酸素を確保しようと薄い唇が開き、はっはっと犬みたいに浅く呼吸を繰り返す度に上下する胸を見て喉の奥が焼けるように熱くなる。 「っ、は……ッ、ぁぐ……ッ!」 「ほら、もっと抵抗しないとこのままうっかり死んじゃうかもね。お前」 ゆう君の白い肌が赤く染まっていく。歯を食い縛るあまり、薄く開いた唇の端からとろりと垂れる唾液の塊。それが唇から顎まで流れるのを見て、無意識の内に舌を這わせていた。 「……っ、ぅ゛……」 どくどくと耳の裏っ側で脈打つのが聞こえてくる。 俺は、なにをしているのか。自分でもわからなかったが、止められなかった。見開かれたゆう君の瞳に自分の顔が映り込む。 別にこんなことをしたかったわけではない。そのはずなのに、ゆう君は抵抗しなかった。諦めたような、軽蔑した目でただ俺を視界に入れないようにその目を反らすのだ。 「っ、は、……」 柔らかい唇同士が不意に触れ、呼吸が止まりそうになる。今更になって、ゆう君とのその近さを意識してしまう。そして、見つけた。乱れた襟首の下、うっすらと虫刺されのように赤くなったゆう君の首筋の痕跡に。 ――キスマーク。それも新しいものだ。 それを見つけた途端、かっと顔が熱くなるのが分かった。俺はゆう君の首を締めるように、そのままゆう君から顔を離した。 「か、ひゅ……ッ」 「なんだ、やけに抵抗しないって思ったら……そういうことかよ」 「っ、ぐ、ぅ゛」 「……気持ち悪いんだよ、マゾのホモとか終わってんだよお前。死ねよ。死ね、彼氏相手に盛ってんのか? 首締められて発情してんじゃねーよ、クソ野郎」 はっはっと開いた唇の隙間から突き出る舌が揺れるのを見て、思考が液状化していくみたいになにも考えられない。自分が何を言っているのかも分からぬまま、ただ指の先に力を込める。その都度震える身体が、見開かれるゆう君の目が、ゆう君が俺の手首を掴み、カリカリと猫のように必死にしがみついてくるのを見てるだけでその時だけは満たされる。 ゆう君が、俺を見てる。ちゃんと、俺を見てる。 どくどくと心臓から押し出されていく血液が増していく。下半身へと溜まっていく熱が溢れ出しそうになるのを感じた。 こちらを睨んでいた目がぐるりと揺れる。唇の端、溜まっていた唾液の泡を舐め取り、俺はゆう君の首から手を離した。 瞬間、大きく上体を丸めさせたゆう君はその場で喘ぐように咳き込むのだ。 カウパーで濡れた下着の感触がただひたすら気持ち悪かった。 「――っ、は……ぁ……ッ」 ゆう君を追い出したあとのトイレの個室の中。俺はベルトを緩め、便器に腰をかけたまま下ろしたスラックスの下から取り出した性器を一心不乱に扱いていた。 ゆう君がいなくなるまで耐えたが、そのせいで下着が一枚駄目になった。 自慰に耽る度に自分が堕落していくのが分かる。それも、あいつの顔を浮かべるなんて。 俺は自慰行為が嫌いだった。射精する度に自分が惨めになり、失望する。感じた快楽よりもその反動の方が大きくなる。だから嫌だったし、自慰に耽る同級生を見る度軽蔑した。 俺は猿ではない。人間だ。そこらの性欲に流される人間と同じではない。 そう思いたいのに。 『っ、ハルちゃん……』 頭の中でゆう君の声が響く。呼ばれてもないはずなのに、脳は都合のいい幻影ばかりを見せてくる。 うっすらと赤くなった首筋。男臭さのない薄い身体。すぐに赤みがかかる頬が赤黒く変色し、額に血管を浮かび上がらせる。 そして、乱れた前髪の下。オレンジブラウンの髪の下、光を失った目が俺だけを見ているのだ。 「……ッ、は……」 どくん、と手のひらの中。硬く脈打っていた性器が跳ねる。それの亀頭を手のひらで塞ぎ、吹き出す精液を受け止めながら俺は目を閉じた。 余韻なんてない。やってくるのは自己嫌悪のみだった。 ――俺は、違う。あいつらとは違う。 精液で汚れた手のひらを広げる。まだ指先にはゆう君の首筋の感触が残っているようだった。 「……っふ、」 こちらを睨むゆう君の視線を思い出し、ぴくりと射精直後の性器が頭を擡げ始めることに気付いて青ざめた。 ――最悪だ。これも、全部あいつのせいだ。 男にやすやすと抱かれ、その顔で俺の前に現れるあいつのせいだ。 ◆ ◆ ◆ ゆう君が部屋からいなくなり、一人部屋となった部屋はやけに広く感じた。 夜、無音の部屋の中。俺は参考書を広げ、自室の机に向かっていた。 部屋に帰ってきたあと、その日の授業内容を忘れないよう復習する。時間を決めて集中するようにしていたのに、その日ばかりは思うようにペンが進まなかった。 それもそのはずだ。無意識の内に机の下、下半身に手が伸びる。甘勃ちし、スラックスを押し上げる性器を握り、俺は軽く手を動かした。 「……っ、は」 ゆう君には同性の、先輩の恋人がいる。 その人はこの学園でもよくない噂の所謂不良らしくて、そんな男相手にあんな痕を着けられてるゆう君のことを思い出す度に下半身に熱が溜まった。 最初はただ軽く刺激して苛立つような気持ちを発散させるためだけだった。それなのに、気付けば俺はペンを置いて先程よりも更に大きくなり、本気勃起した性器をひたすら扱いていた。 『なあ、齋藤って結構エロくね?』 『分かる。殴るたびに喘いでんの、あいつまじでやべーだろ』 いつの日か、中学時代の今ではもう名前も顔も思い出せないクラスメイトたちの会話を思い出す。 まだ未成熟でありながら、今よりも小柄だったゆう君に劣情を向ける同性の同級生は少なくはなかった。 幼さが強く中性的な顔立ちと線の細い身体がより変な気を起こさせたのだろう。そのときの会話を聞くたびに、俺は吐き気を催していた。だから。 『何言ってんだよ、男にエロいとかキモすぎんだろ。お前らもホモかよ』 吐き捨てれば、クラスメイトたちはしんと押し黙る。それから『冗談に決まってんだろ』『そうそう、有り得ねえよ』なんて口々にするのだ。 それから誰も、少なくとも俺の前でゆう君についてそういうことを口にするやつはいなくなった。 それでも同じ男だ。時折クラスメイトが裸になったゆう君を前にして股間を膨らませてるのも見てきた。 ――男相手に欲情する方がおかしい。 ――しかも、よりによってあいつなんかに。 頭では分かっていたからこそ、自己嫌悪は特に色濃くなった。 おかしいのだ、と繰り返し、俺はしばらく汚れた手のひらをただ見詰めていた。 どれもこれもあいつが俺から逃げたせいだ。あいつがいなくなってから、一人のときに思い出したくもないことばかりが蘇る。 あいつの幻影に付きまとわれ、自習すらもままならない。 あいつがいたときは、こんなことはなかった。夢想に耽ることなんざ。 今こうしてる間にもゆう君は俺ではない男と一緒にいるのだ。アザとキスマークでコーティングされた体で抱かれてるのかと思うと、下腹部が重くなっていく。 ――最悪だ。と、汗ばんだ額に張り付いた前髪をかきあげた。 一人きりの夜は長い。 「……早く帰ってこいよ、ゆう君」 おしまい
にわし
2024-02-18 08:15:01 +0000 UTC