栫井と初めて出会ったとき、第一印象からして最悪だった。 こいつとだけは絶対に仲良くなれないと思っていたはずなのに、不思議なこともあるものだと改めて思う。 「……おい」 「……」 「おい」 「…………」 「おい、………………齋藤」 教室の中、うつらうつらしていた俺の耳元でいきなり名前を呼ばれ、ぎょっとした。顔を上げればそこには栫井がいたのだ。 何故栫井がここに、ということよりも、ついさっきまで授業を受けていたはずなのに、とっくに周りに人気はなくなっていることに驚く。 夕陽で赤く染まった教室内、俺は思わず目の前の男を二度見した。 「か、栫井……なんでここに……皆は……」 「俺は見回り。……お前は爆睡してた」 「……」 「誰にも起こされないとか余程避けられてんのか、お前」 ぐさりと栫井の言葉が突き刺さった。 ……そんなことは、ないはずだ。とは言い切れない自分が余計悲しい。 どちらにせよ生徒会の見回りの時間ってことは相当放置されていたに違いない。それとも、俺がそこまで熟睡してたのか。 「あ……ごめん、すぐ帰るね」 「……別に」 「え?」 「もう他の見回りは終わった」 「あ……そうなんだ」 お疲れ様、と栫井を見上げれば、栫井はなんとなく不服そうな顔をしていた。 なんだ?俺の言葉が気に入らなかったのか?……偉そうだからってことか? なんて考えながら立ち上がり、そのまま教室の奥のロッカーから鞄を持ってこようとしたときだ。ロッカーの扉を開いたところで、後ろからついてきた栫井にそのままひょいと鞄を取られた。 「栫井……?」 「…………」 「……あの、もしかして……一緒に帰ってくれるの?」 「は? ちげえよ」 「あ、違うよね……ご、ごめん……」 「……寮まではどうせ一緒だから」 ついていってやるだけだ、と栫井はぼそっと吐き捨てるのだ。こちらを見ようともせず。 ……それは一緒に帰るということにはカウントされないのだろうか。なんて思いながら、俺は「ありがとう……?」とだけ返した。 栫井は素直ではない。 正確には、時たま鋭利な刃物くらい素直ではある。けれど、あまり自分から誘ったりだとか優しい言葉を掛けてくるようなタイプではないのだ。 それはただ極端に不器用というか、感情を面に出すのが下手というか……まあなんにせよ、そんな栫井の性格がわかるようになってきたのもここ最近のことだ。 結局、栫井に鞄を持ってもらったまま、そのまま俺は人払いされたあとの無人の学園内を歩いていく。 「栫井、鞄重たくない? 無理しなくても……」 「お前、俺のことバカにしてんのか」 「ち、ちが……ごめん、そんなつもりじゃ……」 「……チッ、持ちたきゃ持てばいいだろ」 苛ついたように鞄を放って返してくる栫井。 うっかり落としそうになりながら、慌てて俺は鞄を受け止めた。 ――つまり、この場合栫井は俺と帰るためにわざわざ鞄をひったくったのだ。栫井は素直ではないため指摘しても認めないだろうが。 そんなことを考えながら、栫井のあとを追いかけようとしたときだった。 「ぁ、栫井待――」 待って、と言いかけたのと、足が滑ったのはほぼ同時だった。 前のめりになるように傾く体。目の前の栫井がこちらを振り返り、ぎょっとする様がスローモーションで映し出される。 そして次の瞬間、そのまま栫井に飛び込むような形で転倒してしまった。恐る恐る目を開けば、俺の下には俺のクッション代わりになった栫井がいた。 「ご、ごめん栫井……っ、大丈夫……?」 「……っ、いいから退け、重いんだよ」 「ぁ……っ、ご、ごめんね……!」 大丈夫?ともう一度栫井に尋ねるが、栫井はこちらを睨んで舌打ちをするのだ。 「あ、あの……どこか怪我とか……」 「……そこまでやわじゃねえよ」 そう答える声がもう既に無理しているのが分かった。しかも顔が青い。 「退け」と俺を押し退け、そのまま立ち上がろうとする栫井だったが一瞬動きを止め、そのまま固まる。 その額には尋常ではない量の汗が滲んでいた。 「か、栫井……」 「うるせえ」 まだなにも言ってないのに。 「ね、ねえ、やっぱ怪我してるよね……っ? 足、痛いんじゃ……」 「してねえ」 「じゃあ立ってよ」 「……………………」 「栫井……」 「いいから、先にいけ」 観念したのか、座り込んだまま栫井はしっしとこちらを追い払ってくるのだ。 一緒に帰ろうと言ってきたのは栫井の方なのに。このまま放っておくこともできない。 かと言って、どうすればいいのか――。 せめて、保健室へと連れて行くことさえできれば。 そう判断した俺はよし、と息を飲み、そして栫井の体に手を伸ばす。――確か背中と……足の裏か? 「っ、おい、なにし……」 「む、ぐ……っ!」 そのまま腰に力を入れ、栫井を抱き抱えようと踏ん張る。けれどやはり細いとはいえど、自分よりも背が高い男を抱えるのには並大抵の力では無理だ。 「ぐ、むむ……っ!」 せめて少しだけでも持ち上がれば、と更に栫井を抱きしめるように腕に力を入れたとき、栫井の体が持ち上がる。 そのことに俺も栫井も驚いていた。が、次にやってきたのは筋肉がほぼ役に立っていない腕へのもろのダメージだ。 「ぉ……降ろせ……っ、おい……!」 「ほ、保健室って……どっちだっけ……」 「右だ馬鹿……っ、いいから降ろせ!」 このまま栫井を落としてしまうよりも先に保健室に運び込まなければ――そんなことを考えながら、俺は栫井を抱き抱えて放課後の学園内を駆けていくのだ。 ◆ ◆ ◆ 「軽い捻挫ね」 「捻挫……」 「一応湿布は貼っておくから大丈夫よ、そんなに心配しなくても」 「は、はあ……」 ――保健室。 丁度帰ろうとしていた養護教諭のおばちゃんを呼び止めれば、何事かと驚いたおばちゃんはすぐに栫井の怪我を診てくれた。そして、簡単な手当とともに『ちゃんと戸締まりして鍵を職員室に届けてくれるなら少し休んでもいいわよ』という言葉つきで先に帰っていく。 俺は養護教諭の言葉に甘え、少し栫井に休んでもらうことにした。 誰もいなくなったベッドの上、カーテンを締め切る必要はない。そんな中、栫井は不服そうな顔をしてベッドの上で胡座を搔いていた。 「だから言っただろ」 「でも、捻挫でも歩くのは辛いよ……」 「お前ならな。……俺は別に平気だ」 「平気って……」 ――それはそう自分で言い聞かせているだけではないのか。その我慢は本当に必要なのか。 そんな言葉が頭に浮かぶ。 けれど、栫井の気持ちも分かってしまうから強く栫井を止めることもできないのだ。 ……頼る人がいない状況下だと、一人で耐えることが当たり前になってしまう。 「……なんでお前がそんな顔してんだよ」 どんな顔をしていたのだろうか。自分では分からないが、こちらを見上げる栫井は呆れたような顔をした。 「捻挫も、立派な怪我だよ」 「怪我に立派もクソもないだろ」 「そうかもしれないけど、だけど……」 「……」 上手く言葉が出てこなくてじれったい。 しどろもどろと言葉を探していたときだ、不意に伸びてきた手に手首を掴まれる。 「……? 栫井……?」 「……」 またもや無言だ。栫井は俺から目を反らしたまま、それでも俺の手から指を離そうとはしなかった。 ……隣に座れってことなのだろうか。 分からなかったが、なにも言わなかったのでそのままそっと隣に腰をかける。二人分の体重に小さくベッドが軋んだ。 「何座ってんだよ」とかなんか言われるかなと思ったが、栫井は何も言わなかった。 ――その代わり、右肩に栫井の左肩が小さくぶつかる。 ごめん、と慌てて離れようとしたとき、手首を掴んだ栫井の手に力が入るのだ。 「……俺は、辛くない」 お前に助けられなくとも、別に。 そう、栫井は小さく呟く。俺は栫井の方を見れないまま、目の前のカーテンを見つめていた。白い布越しに夕陽の光が漏れ、淡いオレンジ色に染まったカーテンが揺れるのを見つめていた。 「でも、俺は辛いよ。……栫井が痛そうにしてるの」 「じゃあお前も我慢しろ」 それは、栫井のことを見放せってことなのか。 思わず隣の栫井を見ようとしたとき、肩に重みがのしかかってくる。首筋に当たる髪先の感触。そして、シャンプーの匂いだろうか。淡い香りがした。 栫井が凭れかかってきてるのだとわかった瞬間、思わず膝を握っていた手に力が籠もってしまう。 「か、栫井……」 「こっち見るなよ」 「なんで……」 「なんででもだ」 また勝手なことを言う。 けれど、不思議と悪い気はしなかった。本当に不思議ではあるけれど。 「俺が我慢してると、栫井は嬉しいの?」 尋ねれば、一拍置いたあと栫井は「ああ」と呟いた。俺は「そっか」とだけ返す。 痛みの堪え方、精神の保ち方は人それぞれだ。それが栫井の本心か、俺をあしらうためのその場しのぎの適当かは分からない。けれど、なんとなく俺はその言葉は嘘がついていないと思った。 「……わかった」 「……」 「けど、保健室に連れて行くことくらいはいいよね」 「お前、人の話聞いてたかよ」 「手当したあとでも、しようと思えば我慢はできるよ」 「屁理屈だな」 「そうだね」 保健室へと連れて行くことくらいはできる。けれど、その先の選択肢は君が決めればいい。 巻かれた包帯を引き剥がすことも、消毒薬を洗い流すことだってできる。 「……でも、選択肢は多い方がいいよ。きっと」 栫井はなにも答えなかった。俺は栫井の表情を見ることもできないまま、開いた窓から流れ込んでくる生暖かな風に揺らされるカーテンの波を見つめていた。 それから間もなくして、右側から聞こえてくる寝息に少しだけ驚いた。 余程疲れていたのだろう。俺はそのまま栫井を暫く休ませることにした。 その後、目を覚ました栫井に「なんで起こさなかったんだ」と問い詰められることになったが、「俺も眠ってしまってて」と誤魔化す。信じてもらえたかは分からないが、栫井はそれ以上言ってこなかった。 「栫井、捻挫は大丈夫なの?」 また後日、たまたま寮の廊下で栫井とすれ違う機会があったので訪ねてみれば、栫井は露骨に面倒臭そうな顔をした。 「……大丈夫じゃないなら出歩いてない」 「でも栫井、我慢して無理するのが好きだって……」 「人をマゾみたいに言うな」 「……」 「気付いたような顔をするのもやめろ」 心を読まれてしまっていたようだ。でも、ここまで言い返すことができるくらい元気になってるのならと思えば安心した。 「なにニヤニヤしてるんだよ」 「え、ニヤニヤはしてないよ」 「……」 「栫井、どこ行くの?」 「別にどこだっていいだろ」 まあ、いいけど。俺が余計なこと言ったから怒ったのかなと思ったが、ちゃんと応えてくれる辺りそうではなさそうだ。 なんて思ってたら、背中を向けたまま栫井は「飯」と小さく呟く。 「え?」 「……お前も、どうせ行くんだろ」 ――これは、恐らく栫井なりに誘ってくれてる……のかもしれない。分かりにくいが。 本当はそんなに腹は減っていなかったが、せっかくの栫井の誘いを断る気はなかった。 「うん、行くよ」と答えれば、栫井は何も言わずにそのまま歩き出す。俺はそのあとをついていくことにした。 おしまい 「あの、栫井……」 「……」 「俺、今度は栫井を落としそうにならないよう、もっと筋肉つけるね」 「やめろ」 (即答だ……)