バタバタしていて更新ができずすいません・・・。
ここ半年ほど、修羅場が続いております・・・。
この間、フランスの媒体のインタビューを受けたのですが、ちょっと日本の読者さんにはフランス語のインタビューは読めないと思うので(私も読めない)日本語の返答をここにアップしますね。
友人に勧められたことがきっかけでした。
子供の頃からずっと一人で絵を描いたりしていたのですが、漫画家になろうと思ったことはありませんでした。
それは学校を卒業しても同じで、仕事を終えて家に帰ると、寝るまでずっと絵を描いていました。ただそれは漫画ではなく、あくまで風景画や人物画をアートとして描いていたにすぎません。
描いたもののほとんどは誰に見せるでもなく、部屋のすみに積んでいました。
なので、漫画家になろうと意識したこともなく、「絵を描くのが好き」というだけの会社員でした。
当時のわたしは流行りの漫画も知らず、たまに昔の漫画(谷口ジロー先生の作品や、さくらももこ先生の作品)を読み返すくらいでした。恥ずかしながらワンピースや進撃の巨人ですら読んだことがありませんでした・・・。
知人から「それだけ絵が好きなら漫画家になったらどうか」とそそのかされ、2ヶ月ほどかけて80ページの短編漫画を描いてみました。漫画の原稿用紙や漫画用のインクもその時、会社帰りに初めて買いました。トーンなどもYoutubeで「トーンの貼り方」という動画を見ながら貼りました。
お昼は会社に行って、夜に家に帰ってから寝るまでの数時間のあいだに、スーツを着たまま漫画を描くという生活を2ヶ月続けて、なんとか最後まで描き終えました。
それを、どういうわけか日本の出版社である講談社が買い取ってくれて、アフタヌーンという雑誌に掲載してくれました。
それからはいつのまにか締切が生まれて、気づけば漫画家と呼ばれる業種に所属していました。
漫画のほうが忙しくて、勤めていた会社は辞めてしまいました。
アシスタント経験もないので、漫画に必要な知識は連載しながら独学で学んでいきました。
もともと人の多い場所が苦手で、一人で絵を描く静かな時間が好きだったので向いていたのだと思います。いざ漫画家になってみたら、自分には描きたいものがたくさんあることにも気づけました。
とても楽しいですよ。辛いときもたくさんありますけど(笑)
子供の頃にぬいぐるみが好きで、よくままごとのようにぬいぐるみと話したりして遊んでいました。そこから「このぬいぐるみが喋ってくれたらいいのに」と思うことが多く、アルマの「人形と人間」という世界観につながったのだと思います。
その後、デビューしてすぐ「連載企画を出してほしい」とアフタヌーン編集部に言われ、最初に考えたのは「核戦争後の世界で人類は絶滅に瀕しており、ロボットたちが生き残った動物の世話をしている」という漫画でした。これがのちのアルマのベースとなるものでした。
ただそのとき「これは面白いマンガではないかもしれない」と思い、一旦机の引き出しにしまいました。謙遜ではなく、本当に退屈な作品だったと思います(笑)
その後、違う連載をしたあと、再度その企画を取り出して、集英社の編集者さんと一緒に作り変えました。
私はどうにも頭の回転が遅くて、一人で長考して頭でっかちで不器用な作品を作ってしまう癖があるのですが、担当さんが毎日のように根気強く作品を一緒に「エンターテイメント」に仕立ててくれました。
作品をより面白くしようと深夜まで根気強く一緒に考えてくれた集英社の編集者さんの情熱に感化されて、講談社から集英社に出版社を移して描いてみようと決意した感じですね。
それが「アルマ」という作品になり、週刊ヤングジャンプで連載することになったわけです。
アシモフの世界観は、その後の映画や漫画に大きく影響を与えていると思います。例に挙げられたゴースト・イン・ザ・シェルや、ハリウッドのSF映画などもその影響下にあると思いますし、私もすごい好きでした。
もちろんアシモフだけでなく、ヴェルヌやハインラインなど、多くの先人の作家たちの作品が絡まり合って現在のSF作品の土台を支えていると言っていいと思います。
私自身、特別意識したわけではありませんが、やはりアルマもその先人の作品が作った土壌の上にあると思います。
読者の人が「アシモフ」という人を知らないとしても、やはりハリウッド映画などを通じて違う形でその世界観を刷り込まれているわけですから、おかげで私が「ロボットの反逆」を描いたとしても、その発想を突飛に思わず、素直にストーリーを追ってくれます。
つまり彼らのおかげでこの作品が理解可能なものになっていると思います。
ただ、ロボットという立て付けはあれど、私はどちらかというと「自我とは」というものをテーマにしています。
正直、相手がロボットでも、言葉の通じないエイリアンでもどちらでも良かったのです。
そういう面では「ブレードランナー」の影響を受けていると思います。あとは映画の「A.I.」ですね。
どちらも何度見ても退屈な映画ですが(これは記事に書かないでください!)
でもやはりとてつもなく偉大な作品だと思います。
ブレードランナーではレプリカントが自我に悩みます。
A.I.でジョーが最期に「I am… I was…」と言って消えたシーンはロボットの「生の獲得」を表現していたと思います。
あとは、岩明均先生の「寄生獣」は影響を多大に受けています。
「寄生獣」とアルマは同じ問いを扱っていると思います。
人を食い殺すことに執着するパラサイトが「我々はなぜ生まれてきたのか」と自問自答するシーンは、やはりアルマのギジンと同じ「目的を持って生まれたことへのジレンマ」ですから。
人間などの生物は本来目的を持っていないので、我々が抱えていない悩みです。
まぁ正直に言うと、私が普段読む漫画や見る映画は、日常を舞台にしたものばかりなので、あんまりSFやアクション映画に詳しくはないので、これ以上しゃべると私の浅学が露呈します(笑)
その対立構造はメッセージではありません。
あくまでただの設定にすぎません。世界を作る時に必ず生まれるヒズミです。
その証拠に、私は作品の中で「機械を痛めつけてはいけない」「自然を破壊してはいけない」とは言っていません。そこを中心とした衝突が発生するだけです。
そもそも、私自身「人類と自然」「人類と機械」という対比に、明快な答えを持っているわけではありません。
私の家の横には、東京の多摩川という大きな川が流れていますが、その川の周囲はアスファルトで固められ、完全に治水しています。その工事の過程で多くの湿地帯は埋め立てられ、そこにいた希少な虫や野鳥などの多くは住めなくなったでしょう。しかしおかげで我が家は洪水に襲われることなく、雨の日も家の中で安心して絵を描くことができます。
昔、日本では川沿いは貧困層が居住する区域も多かったのです。それは河川の反乱で家を失うリスクのある土地だからです。しかしその土地の格差も治水のおかげでなくなりました。
どこまで私たちは自然と折り合いをつけるのか、というところには「少なくとも子どもたちに危険が降りかかるリスクは、全て排除してほしい」というくらいのガイドラインしか見当たらないのが現実です。
しかし、そういった開発が積み重なり、日本のどの川にもいたタガメという昆虫は、いまや絶滅危惧種です。タガメがいなくなると、タガメを食していた鳥類にも影響を与え、人類にも影響を与えるでしょう。
機械に対しても同様のことが言えます。
私はスマートフォンが好きではありません。
真偽のわからない情報に、たくさんの人が右往左往しているのを見ると、私自身もパニックになってしまうのです。
また、いつでも私へ連絡をよこすことができるので、スマホを持っている限り隠れる場所がありません。便利を求めた結果、自由を奪われています。
しかし、もし私の友人が目の前で失神したとしたら、スマートフォンのありがたみを実感するわけです。すぐに救急車を呼ぶことができますし、応急処置を調べることも出来るでしょう。
つまりは、スマートフォンは「スマートフォンを作ろう」と思って発明されたものではなく、「より便利な道具を作ろう」と発明されたものがスマートフォンであり、それ以上でもそれ以下でもないのです。
よって私はスマホという工業製品に対し不快に思いながらもそれを手放すことはできないでしょうし、「スマホの印象や、そこから感じ取る意味は、自分の使い方に委ねられている」という当然の答えに回帰するわけです。
長くなりましたが、上記のように、私は「自然と人」「機械と人」を対立するものとして捉えていません。人にとってはすべてが必要な存在であり、その定義や受け取る意味は観測する人間の数だけ存在します。
ではその設定で何をあぶり出そうとしたのかというと、
「人間・キカイ・自然、それらの境界を超えた結末とは何か」っていうのを私が見たかったのだと思います。
主人公のレイは、機械に対して偏見やコンプレックスを抱いておりません。
彼にはスマートフォンはただの黒い板で、木材は暖を取るための貴重な資源に見えていると思います。(アルマの第二話で、AppleのMacProを台にして焚き火をしているように)
彼にとっては人もキカイも、同じ様に愛せると思いますし、大事な人であったらその人が人間であるかキカイであるかは関係ないのです。
昔から使っているラジオを買い替えもせずに今も修理して使っている気持ちに近いかもしれません。
他人から見たら量産された工業製品でしかなくても、本人にとってその壊れたラジオは特別なものなのです。私なんて10年も着ていたボロボロのジャージを捨てるだけで泣いてしまいました。
そこにモノの一生を見ると同時に、自分の半生を見るからです。
しかし、アルマの世界の人たちはそのようにできていない。キカイは人を憎み、人はキカイを憎んでいます。それはまるで、戦争が起こる直前、両国で互いのヘイトが噴出しているようです。
その双方を愛せるレイという少年が、キカイを殺す人間を見てどう感じるのか、逆に人を殺すキカイを見てどう感じるのか。
それを描きたかったにすぎません。
素直なレイが感じたことなら、私も納得して受け入れられると思ったのです。
アルマの世界の人類は、機械を差別します。そして同じ人間の中でも人種差別を繰り返し、牽制しあい、彼以上に生きづらい日常を送っています。
そこに放り込まれたレイが、ただ彼の率直な感想を言ってくれることで、きっと皆の凝り固まった価値観を変えてくれると思ったのです。
もしこの作品にメッセージがあるとしたら、「人間とキカイの問題」ではなく「自分と他人の問題」。
「生まれの異なるもの同士が分かり合うにはどうしたらいいのか」という問いかけだと思います。
それはどの時代にも、もちろん現代の2021年にも当てはまるものです。
私はあまり頭が良くないし、しゃべるのが得意ではないので「うーん、こっちの人の立場も分かるし、こっちの人の気持ちも分かる。どうしよう・・・」と押し黙ってしまうのですが、アルマというシミュレーションの中で、私の代わりに主人公のレイに考えてもらおうと思いました。
これはアシモフのロボット三原則を模倣した上で改変したのです(笑)
ただ、そこに「輪廻」の概念を加えています。
人には「老い」や「死」「治らない怪我」というロボットにはない欠点がありますが、それが逆に「生きる道筋」みたいな意味を人間に与えてくれます。
親しい人間の死や病気を看取ると、自分の今後の死生観に直結します。
自分の人生の鏡として他人の一生を捉えるわけです。
政治家も犯罪者もみな何もかも途中なまま死んでいくのですが、死という答えは絶対に待っています。
しかしロボットにはそれがない。輪廻から抜け出せない「煉獄にいる存在である」という意識を持って改変しました。人には寿命がありますが、老いや寿命のない彼らはどこにもゴールがないのです。
彼らは自分で求めてもいないのに、人間の姿に似せて作られ、顔も俳優のように美しく作られていますし、体型もスマートです。おかげでロボットはみな顔が似ています。個性が薄いのです。太ったおじさんもいないし、歯の抜けた女性もいません。ほくろもないのです。美しく見えますが、とても単調で退屈な外見をしていますし、悪趣味にも感じられます。
本来、作業用のロボットであるならば、二足歩行であることはデメリットであり、タイヤ駆動でロボットアームでもついていたほうが汎用性はあるのです。
なのに、わざわざ人間の見た目で作られている。
その宿命とは裏腹に、それでも「自分にしかないものがほしい」という自我の渇望が彼ら自身を傷つけ続けます。
彼らが人を殺すのは、人が神殺しをしているようなものですね。
人に反抗することで「私という存在の定義は、私が決めるのだ。あなたたちが決めることではない」
と宣言しているのです。人間がいると、彼らは自分という存在に自信を持てないのです。
アルマの世界では一つのギャップを意識しています。
それは「人間は機械のように」「機械は人間のように」というギャップです。
アルマの世界の人間は兵士ばかりです。彼らは自分の感情を抑えて、組織に対して忠実に動きます。
それはまるで大きな機械の部品の一つのようです。
逆にアルマの世界のギジンたちは「プログラムを脱したい」「アイデンティティが欲しい」という願望を持っているので、人間より表情豊かに、たくさんの願望を積極的に表現します。
ルキアナというキャラクターが、同僚であるティーチャーが死んだ際「奴は命をかけて本国を守った」と表情を崩さずに言うのに対し、その直後メイドのギジンが「ピアノを弾きたい」と言います。
キカイのほうが感情表現が豊かで、そこに自分のアイデンティティを求めます。それが本物であるかは関係ありません。自分らしい何かを発したいのです。
同様に、ロボットの腕が変化するのは、第一巻の後半に出てくるルキアナというキャラクターの右腕と対比構造にあります。
ルキアナの腕はいびつです。それは科学技術が衰退し、それでもこの時代の無知な人類の製造した義腕を装着している姿が、美しく変形する機械の腕と対比構造にあるのです。
もちろん読者さんはそこまで意識して読む必要はありません。あくまで作者の論理です。
人の形をした偽物である機械は美しいが、感情やアイデンティティを切望する。
オリジナルの人類はいびつで汚く、感情を押し殺して生きる。
それぞれが欲しがっているものは、実は相手が持っていたりするのです。
そのギャップを描きたかったので、あの腕になりました。
ただ、もちろん設定もあります。
ロボットたちが作られた時代は科学技術が発展している時代なので、有機的な形状を構成しながら、内部に銃を埋め込むことが可能でした。エルゴノミクスデザイン、と言えばいいのでしょうか。
逆にアルマでレイの生きている2105年は、科学技術は廃れ、先人の残した遺産で食いつないでいるようなものです。
ロストテクノロジーになっているのですね。
スターウォーズでエピソード1の時代は機械が美しく、エピソード4ではソ連のロケットのような無骨なデザインが増えているのと同じです。(スターウォーズに詳しくないのに、適当に言ってしまいました。間違っていたらすいません。スターウォーズファンを敵に回すと怖い)
単気筒エンジンですら、この時代の人類が製造するのは容易ではありません。
その結果、ルキアナの右手は機械が露出したまま、とってつけたような不自然な形状をしています。
それはロボットの美しい変形とは真逆です。
ただ、本当に描きたかったのは、最初に言った「ギャップ」です。
人間と機械が、まるで相手の特徴を模倣しているようになっています。
これは私が考えました。素晴らしいでしょう?
と言いたいのですが、本のデザイナーがデザインのラフを提出してくださったものですから、デザイナーさんとの共同作品ですね(笑)
もちろん絵に関しては私が描いています。
いくつかの素晴らしいラフ案をだしてくださったのですが、私が昔から写真を切り取って貼り付けたようなコラージュのデザインが好きでしたので、打ち合わせの結果、今の表紙のデザインにしていただきました。
物語が「人と思っていた存在が、機械だった」「では自分は何者だろうか?」という始まりなので、人と機械が混在し、まるでどっちがどっちかわからないようなデザインになっています。
また、実は1巻・2巻・3巻・4巻と、種族が異なるキャラクターが表紙を飾っています。
1巻はレイ、彼はこの時代に生き残った唯一の「人類」です。
2巻はルキアナ、物語後半にわかることですが彼女は「クローン」です。
3巻はシン・イェン、彼女は機械の体に人の記憶をインプットした「新人類」という存在です。
4巻はリチェ、彼女は心も体もキカイである「ギジン」ですね。
全部の表紙もCMYKの4色になっています。この4つの色が揃って、初めて全色が描けるわけです。
それは作品の世界も同様、全種族が揃うからこそ世界が成立しているわけです。
あまり意識して「食べ物」を重要な要素にしたわけではありませんが、物語が人間と機械の対立構造で構成されていてその境界線の上に立つのが主人公ですので、彼には「美味しいものが食べたい」くらいのシンプルな動機だけを持っていてほしかったのだと思います。
なので、連載を始める前から「物語の最後はリチェとハンバーガーを食べるシーンで終えよう」と決めていました。
主人公の目的から「大義名分」のようなものを取り去りたかったわけです。
彼は責任をもたず、彼には「国」の概念もなければ「種族」などもよくわからない。
人類の未来のことなど考えない。
「人と機械が進むべき道」は彼自身の経験だけが物語っていて、彼が言葉を使って誰かに伝えるものではない。そんな私の意図がありました。言葉では説得力はありませんからね。
相手が機械であろうと人間であろうと手を差し伸べて、それ以外にはシガラミやコンプレックスを抱いてほしくはありませんでした。
それが理由です。
もしかしたら、私自身が「家族で揃って食事をする」という経験がなかったので、リチェとレイの二人が家族のように一緒に食事をする、というシーンに憧れがあったのかもしれませんね。
我が家は父親がほとんど家におらず、母は運送会社のパートで夜まで帰ってこなくて、兄も幼少期に家出をしてしまったので、私はいつも一人で冷凍食品やカップ麺を食べていたので。
私の好きな食べ物は・・・なんだろう。
強いてあげるなら・・・日本料理の「うどん」ですね。
太いパスタに卵と醤油をかけて食べるようなものです。具はありません。ちょっと前まで京都に住んでいて、いまは東京に住んでいますが、京都でも東京でもウドンを食べています。
ただ、あの、すいません、私グルメではなくて、時間がないときは絵を描きながら安いパンを何も付けずにかじってるネズミみたいな人間なので、ほかに好きな食べ物が浮かびません。
うどんも「お店に行けばすぐに提供されて、5分で食べ終わる」というファストフードなので好きなのです。すぐに仕事に戻れます。
いまどき刑務所の囚人のほうが多様な料理を食べてると思います。
栄養士の人が見たら発狂するでしょうね(笑)
3巻以降の展開上、ラムダが必要でした。
レイは2巻で、人類の軍隊に同行します。しかしそれは本来のレイの意思ではありません。
レイは本来、機械も人も関係なく愛せる人物です。人類に肩入れするのは違和感があります。
その彼を最後の局面まで連れて行ってくれる存在が必要でした。
それが、レイとリチェが証明した「機械と人は共存できる」ということを物語ってくれる唯一の存在、ラムダです。
しかし、ラムダがあまりにレイに肩入れするようだと、説得力が落ちてしまいます。
ラムダは出来るだけ憎らしく自己中心的であってくれたほうが、彼がレイについて語るときに説得力があると思ったからです。
自分が感じたことをそのまま率直に言ってくれると思ったので。
私が子供の頃に飼っていたハムスターが、食事をあげようとすると私の指を噛み、ケージを掃除しようとすると私の指を噛み、なでようとすると私の指を噛み、とにかく噛み付いてきたので、そのことを思い出したりしながら描きました。
私の指をソーセージだと思っているフシがあったので、たぶんコイツと一緒に寝たら食われるなと思っていました。
そこがまた可愛かったですが。
大局的な歴史と文化の混在が感じられたからです。
まず、作品の具体的な舞台を決める前から、背景は廃墟ばかりになることはわかっていました。
しかし、廃墟、と言っても、その風景にはメッセージがたくさん含まれます。
ある時代に、街の時間が止まり、そこからずっと風化が続いているのですから、時間が止まった瞬間にどれだけの歴史がその景色に含まれているのか、それを意識して選びました。
ヨーロッパにもアジアにも、素敵な街、歴史的な街はたくさんあります。
でも東欧は、歴史的な建造物がありながらも、旧ソ連の影響下にある無機質なコンクリートのアパートのような建築もたくさんあり、21世紀のいまでは西側の文化に属し、そこにガラス張りの近代建築もあります。ドイツ車や日本車も多く走っています。
彼らが自ら作り上げた歴史の上に、人類全体のパワーバランスなどに左右された結果のいろんな建築がパッチワークのように混在しているわけです。
レイたちの生きる2105年には、世界が半世紀前から時間の止まった状態で廃墟として存在します。
それはただの廃墟ではなく、私たちの悲劇的な歴史や、豊潤な文化、それらをすべて含んだ廃墟であってほしかったので、東ヨーロッパを選びました。
実際に漫画を描く前に、取材でトルコ、ルーマニア、ロシアと旅行しましたが、特にルーマニアで上記のことを実感しました。
おそらく世界的な大都市からするとブカレストはちぐはぐな街に見えると思いますが、その街の景色を一枚見せるだけで、人類の歴史のメタファーになり得るだと思ったわけです。
・・・おしまいですかね?
自分の作品を語ることなど滅多にないので、とても疲れました・・・。
漫画を描く方が100倍も楽ですね。
内容に矛盾しているところがあったら許してください。
質問に対して、思いついたことを必死に書いただけですので。
でも、今回のようなインタビューを受けられて、とても光栄に思っています。
作品自体も、このインタビューへの返答も、つたないところもあったと思いますが、最後まで付き合っていただいて本当にありがとうございました。
いつも言っていることなのですが、誰かがわざわざ自分の時間をさいて私の作品を読んでくれただけで私は嬉しいですし、いつもそれで満足してしまうのですが、ほぼ1年ものあいだ自分の部屋から出ずにチマチマと描いたものが、まさかフランスまで届くとは思いませんでした。びっくり!
最後になりますが、日本もフランスも昨年から新型コロナウイルスとの戦いが続いていますが、どうか世界中のどの国も欠けることなく、この困難を一緒に乗り切ることを願ってやみません。
三都慎司
ヒースクリフ
2023-04-27 09:08:39 +0000 UTC