魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫の話を伝えたい時。
自分は魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫を見たんだ。魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫は三毛模様でしっぽが欠けた猫で魚の夢を見ながら餓死したんだ。魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫は孤独でいつも独りだった。
なとど話しが続くと恐らく聞き手は要素要素を複雑に感じ、要点のみを求め死んだ猫の話や可哀想な話として聞き始めるだろうと思う。
しかし、魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫とは魚の夢を見ながら餓死したしっぽの欠けた三毛猫であり、この全文の中に歴史と感情がある。死んだ猫の話や悲しい話は的確な括りと言えない。それならば死んだ猫がいたから悲しいと言えば済む話だ。
黄緑色を存在させない人。もしそんな人間がいたら彼に黄緑色の話をしても黄色か緑色の話だと扱われてしまうように。
自分は黄色の話も緑の話もしたいんじゃない、黄緑色の話がしたいのにという時があるとして。でも黄緑色を存在させない人には残念ながら黄緑色の話は多分ずっと出来ない。それを言い出したら黄黄緑色の話や黄緑緑色の話や黄黄黄緑色の話もしないといけなくなるぜ、と彼は言う。どれも綺麗な色なんだから別にそれで済む話じゃないかと諭される。でも自分は黄黄緑色の話や黄緑緑色の話や黄黄黄緑色の話がしたくなったのなら黄黄緑色の話や黄緑緑色の話や黄黄黄緑色の話を伝えたい。
時々、人は人とどれくらいわかりあえているのだろうかと思う。
自分は自分が思ってることを伝えるならできるだけ正確に伝えたいと思っていることが大体だが、どれくらい伝えられるだろうかと思う。だけどそれは欲張りすぎる願望だとも同時に思っている。