【全体公開版】夏の終わりに空飛ぶ魚を捕まえて
Added 2019-07-29 11:09:18 +0000 UTCふよふよと浮かぶ透明な魚を見た。 夏空は青を強くして、空色というよりかはもう青なんじゃないかって思うほどに突き抜けた色で塗りたくられている。日光もきつくて影色とのコントラストがまるで別世界への境界線みたいに明暗を分けていた。 確かに空は海のように青く、波さえあれば見まごうかもしれない。 だけど、海は海、空は空。魚が泳ぐわけもなければ道理もない。いまだ成人していない僕らでさえ、世界の理くらいは理解しているつもりだ。 それでも、透き通った魚はレンズのように日光を折り曲げ、確かにそこに存在していた。 こんなものを見せられて、どうして泣いていられようか。僕は今さっきまで泣いていたとは思えないほどの勢いで、目を皿のようにして空を仰いだんだ。 「なあ、あれ……」 隣にいた君にも見えているようだ。きれいな魚が空を渡る光景が。 見えてしまったなら、追わなければならない。好奇心をリードにした僕らは飼い主に引っ張られる犬みたいに、遮二無二走り出していた。 「捕まえよう!」 それはどちらが言った言葉だったか。それとも、どっちもだったかな。 まあいいやとすぐに気持ちを切り返す。どうでもいいことだったから、気にするまでもない。 その魚を追って、僕らは青い空へと駆け出すんだ。 **** 「今日こそは捕まえてみるぞー」 意気込んだ声を空へと上げるのは黒っぽい毛皮の犬、黒部 山成(くろべ やまなり)。快活が夏という季節にぴったりとはまっている彼は、今日も今日とて元気に自転車にまたがっている。 半袖と半ズボンは健康優良児の印象そのままで、尻尾を振りながら遠くに向かって吼えた。また部活をさぼって魚を探しに行こうとする彼に、僕は控えめに声をかける。 「またさぼって、怒られない?」 「大丈夫だいじょーぶ! 顧問だって何も言わないし、今のうちに夏を謳歌しないと青春がもったいないだろ!」 どこかで聞いたフレーズを我が物顔で振り回すヤマに対して、僕ができることは困ったように肩をすくめるだけ。一度言い出したら聞かないなんてこと、嫌というほど知っている。 それに、僕だって魚を捕まえたい気持ちがあるのは否定しない。 だから、ヤマからきらめかんばかりの笑顔で誘われてしまうと、どうしたって断れないんだ。 「リュウも当然いくよな!」 「もちろん!」 僕こと蓮井 敬瑠(はすい けいりゅう)も賛成の意を返し、二人とも自転車の用意完了。残念ながら運動部のヤマに比べて帰宅部の僕は運動が得意ではないので、今日もおいていかれないように決意を固めておかなければならない。 「リュウのダイエットもかねて、魚を捕まえような!」 「やめろ。気にしてるんだ、やめろ!」 「今年の健康診断、4キロ増えてたもんな」 「これは冬眠の準備! 熊は冬が近づくと体重が増えるんだ!」 「じゃあこれからもっと増えるってことか? ならますます運動しないとな」 ぐうの音も出なかった。にんまりと笑みを浮かべたヤマにしてやられた感じが悔しくて、口を曲げながら自転車をこぎだした。 逃走も立派な作戦。決して太った事の自己正当化に失敗したからではない。 セミの合唱がやかましい世界は、じりじりと焼け付く灼熱のジャングルだ。コンクリートたちが光合成に勤しんでいる合間を縫って、猛暑を浴びながらペダルをこいでいく。 「まあまあ、おれはリュウの体嫌いじゃねえよ。クラスの女子だって包容力があるって褒めてたし」 「あれは褒めてたんじゃなくて、お世辞! もうこの話題は時代遅れ!」 「あははーっ!」 笑い声のドップラー効果を残して、ヤマが軽やかに追い抜いていく。こちとら全力の前進なのに、やはり野球部のエース様は格が違う。 こなくそ、と思いながら足に力を込める。ペダルが一回転するたびに熱した空気の中に飛び込んでいく我が身のでかさが憎らしい。ヤマに比べて空気抵抗力が段違いなんだぞこっちは。 校内一とも評される巨体を持て余す残念帰宅部にとって、毎日のサイクリングは地獄にも等しい所業だ。何が悲しくてクーラーという文明の利器に自ら別れを告げないといけないのか。 ああ、本当に。あの魚を見つけたのはいつだったか。 少しでもヤマとの距離を縮めようとしながらも、思考は過去へとさかのぼる。 あれはそうだ。じいちゃんの葬式が終わって、僕とヤマだけの帰り道。 キラキラとして、透き通っていて、まだ高い太陽の光を受ける透明な魚。 それは宝石のようでいて、ヒレを動かして空を翔ける名称不明の何かが、僕らの前を通ったんだ。 空を見上げて追う僕たちを大人たちは怪訝な目を向けてくる。僕らにしか見えていないのだと、悟るのにそう時間はかからなかった。 どうしてなのかはわからないけど、きっと、おじいちゃんからもらったお守りのせいだと思う。式場でヤマと僕にと手渡された小さなガラス玉のようなものをもらってから、僕らは魚が見えるようになった。 僕とヤマの胸元で輝くネックレスにはしっかりとおじいちゃんの遺品がなびいている。 「おーい、リュウ! いたぞー!」 思考の海で猛烈なクロールをし続けていた僕をヤマが引っ張り上げる。息を切らしながら顔を上げると、確かに魚が空を泳いでいた。 川辺の土手までやって来た僕らは、道なりにそって泳ぐ魚を前に足を止める。 「ぜー! はー! み、みつ、けだ……」 「……さすがに体力なさすぎるだろ。ちょっと休んでから追うか?」 「そうして……死ぬ……」 「しゃあないな。ほい、水。こういう暑い日は熱中症に気をつけましょうって言われてるだろ」 そんなことは言われなくても知っている。だけど、タダでさえ熱いのに全速力で自転車をこいだら誰だってこうなるだろうとも。 とは言えず、そもそも文句の一つも言葉にならないほどの憔悴を浮かべて、僕はヤマから手渡されたペットボトルを口に含んだ。 気合十分。ぬるくなりかけた水が体を冷ましてくれる。 「……よし、追うか」 「まだ無理じゃね? この前頑張りすぎて吐いてただろお前」 「今日は無理そうなら途中でギブアップするから。まかせてくれ」 「いや、お前を置いてけねえし。何も任せられねえわ。ほら降りろ降りろ」 「でも、魚が……」 「さっきからリュウを待ってる間もそこら辺をくるくる回ってるだけだったし、逃げたりはしないだろ。それより体力の回復が先だって。捕まえるときに全力をださねえとさ」 などと言われればどうしようもない。僕の重い体は今すぐにでも休息を求めているんだ。 自転車を土手にとめて、斜面へとヤマは誘う。僕は転がり落ちるように自転車から降りると、芝生が敷き詰められた地面に全身でダイブした。 「さすがにもうちょっと運動したほうがいいぞ、お前」 「うるせぇ……今、ゲーム買ったばかりなんだよ」 「でも、その年でこの肉はやべえって」 などと言いながら人の腹肉をつまむくそ犬。確かにむっちりしているように見えるが、熊はもともと皮下脂肪が多いだけで筋肉だってあるんだ。ただ持久力がないだけ。 汗でぐっしょりと湿った毛皮をからかうような指先でなでて、犬は笑う。 その背後では魚がくるくると空を回っており、すっかり日常の一部になったことを感じてしまう。確かにあの調子ならすぐにどこかへ行ってしまうなんてことはないだろう。 だから少しだけ、風を感じていたい。 川べりから見る清流は日光を反射してキラキラだ。光の粒をまぶしたみたいで、生命の温かさのようなものであふれているように見える。 こうしてただぼんやりとしているだけでも、草木のそよぎが目に優しい景色を生み出してくれるから、特に退屈もしない。 夏ももう終わりかけていて、お盆の時期に水辺には寄るな、なんて迷信もあったっけ。川の近くで魚を追うなんて、昔の人からしたらただの自殺行為にしか見えないかもな。 「あー、川島石が見える。もうこんなところまで来たんだ」 川の真ん中にある小さな島に、大きな石が置かれている。僕はそれを見て自分がこいできた距離に思いをはせた。 明らかに人工的だが、その意義はどの歴史書にも記されていない変な岩。小さい頃はあの岩を目印に自転車を飛ばして遊んだ記憶もある。 小さい頃は遠く感じた距離も、大きくなるとあっという間だ。こんなにへとへとになってはいるけれど、時間で考えると半分以下になっているはず。 浅いところを渡って行けばいけない場所ではないけれど、当然学校からは禁止されている。それでも、僕はヤマと何度もあそこで遊んで、感情を積み上げてきた。 「あの魚、始めて見るやつかな」手持無沙汰になったので、問いを投げかける。 「かも。前に見たやつより小さいし、動きもちょっと迷子っぽいし」ヤマは相変わらず人の腹を揉みながらだが、答えてくれる。 一番最初に見た魚はもっと大きくて、もっと堂々と泳いでいた気がする。けど、今日の魚は小さいうえに、何かを探しているような行動だ。魚も何かを探したりするんだろうか。 「というか、お前はいつまで人の腹を触ってるんだ」 「いやー、これがなかなか癖になる柔らかさで。おれには全くないものだからつい。思ったより筋肉ついてるんだな」 「いやみか!」 からからと笑うヤマに抗議のツッコミを一つ。服をめくって腹を露出させてくるこの幼馴染が変態の道を歩まないことを切に願う。 「っと待て待て、あの魚回遊をやめたぞ!」 「げえ、本当だ。急ぐぞリュウ!」 僕の声にスイッチが切り替えられたのか、ヤマは迅速に身をひるがえして斜面を駆け上がる。あいにくこっちは万年運動不足の冬眠準備中ベアーなので、自転車にたどり着くころにはヤマの準備がすでに終わっていた。 「リュウ! 急げって!」 「急いでる! もう僕にだせるハイスピー……どぉおぉ!」 これは急がねばと自転車にまたがろうとしたのだが、勢いがよすぎて自転車を押してしまったみたいだ。横への力に対して圧倒的無防備な二輪車は土手を下って一人気ままな滑り台としゃれこんでしまった。 「ああああぁぁ……僕の自転車ぁぁああっ!」 「ああもう! いいから、乗れ!」 「乗れって、後ろかよ! 僕は重いぞ!」 「いいからっ!」 ヤマの剣幕に体が勝手に動いてしまって、僕は後ろにお邪魔してしまった。部活の荷物とかを括り付けるためのキャリアに僕のお尻を乗せる。 「あと、自転車の二人乗りは違反なんだって、学校でも――――」 「知らんっ! 見つかったらリュウの尻がでかすぎて病院に連れていく途中でした、って言うから!」 「お前ぶっ飛ばすぞ!」 ギィっとペダルが抗議の音を奏でるけど、ヤマの脚力がそれを黙殺する。立漕ぎで前傾姿勢になりたいだろうけど、僕が後ろから捕まっているのでそれも難しい。 これは絶対に降りたほうがいいと思うんだけど。 「ふ、ぐおおぉぉ! 思ったより、重いなお前!」 「うるせえうるせえ! だから言ったじゃねえか! おら、もっとキリキリ漕げや! 野球部の健脚はそんなもんかぁ!」 「こ、なくそおぉおぉぉ!!!」 全力で漕ぎ出して、熱い風が頬に当たるようになってきた。自然とヤマの匂いが鼻をくすぐるようになってきて、僕は言いようもない何かが、胸に湧きあがってくるのを感じた。 夏という季節の輝きを一身に浴びているこの瞬間が、体の内側から熱を生み出していく。得体のしれないものを懸命に追っている馬鹿みたいな夏が、僕を昂らせるのかもしれない。 そんな熱中症のようなわけのわからない感情を全力で無視して、僕は立ち上がる。 「僕が捕まえるから、ヤマはとにかく魚を追って!」 「任せろ! でも、この役割分担、ぜってぇ逆だと思うんだよな!」 ヤマの意見は実用性がないので却下っ。 僕は犬の肩に手を置いて、届けと願って魚を目指す。 「うおおおおおっ! 空気抵抗がぁ! 空気抵抗増大いいぃぃぃ!」 「無駄口叩いてないで足を動かせ!」 練習をさぼっている野球部員にはいい運動になるだろう。汗水たらしながら必死の形相で追いかけるヤマの上で、僕は太陽を一身に浴びる。 着実に距離は詰められていて、透き通った魚の形をした何かはその輪郭をくっきりと視界に描き出す。手を伸ばして、あと少しで。 水面の反射光がいくつも魚に注がれて、それ自体がさながらアクアリウムのようだ。水滴の内部を思わせる乱反射が魚を形作っており、触れたらはじけてしまうかもしれない。 指先が、もうちょっと。ヒレにまで届きそうな距離で。 だけど、僕のでかい手が魚を掴もうとした瞬間に、防衛本能からかその身をひらりとくねらせる。 そして遮二無二魚を追っていたヤマは馬鹿正直に軌跡をなぞって、つまりは、坂の方へとハンドルを切ってしまった。 『あ』 僕らが気づいたときにはもう遅く、自転車は土手を駆け下りていく。 「うあああああああぁぁ!」 草原を全速力で突き進む僕の口から悲鳴が漏れて、車輪が暴走し始めた。ハンドル操作を振り切って、凸凹に揺れ落ちる。 まるでジェットコースターみたいな一瞬だったけど、すぐに僕らは自転車から投げ出されて宙を舞う。 このままだと落ちてしまう。そんなわかり切ったことを考えて、スローモーションで流れる風景の中でヤマの姿を探した。 僕と違ってヤマはエースだ。この後にだって大会を控えている。 だから、怪我をさせるわけにはいかないんだ。 「ヤマっ!」 黒い犬を見つけて、思いっきり抱き寄せた。つもりだったのだけど、ヤマも僕をかばうように抱きしめ返してきた。 これで守ってくれているつもりなんだろうけど、あいにく体のでかさが全然違う。 まあ気持ちだけでももらっておきますか。 そう考えて、僕らは芝生の海へと身を投げ出した。 ごろごろを坂道を転がって、ようやく止まったころには土と草まみれだ。 「……いってぇ、無事かリュウ」 「なんとかぁ……」 全身の節々から痛みを発する信号に苛まれながらも、僕らは立ち上がる。 川に落ちなかったのは僥倖と言えるだろう。これでおぼれでもしたら目も当てられない。 「ヤマは怪我とかないか」 「余裕よ、誰かさんがでかかったからな」 「そりゃよかった。これでデブの言い訳も立つ」 「いや、お前はデブじゃねえよ。ちゃんと筋肉あるじゃねえか」 「……そういうの真顔で言うのやめてくれる?」 恥ずかしげもなく言い放ちやがって。 体についたごみを払いながら首をひねると、自転車もどうやら無事みたいだ。どこか曲がってないといいんだけど。 「あーまた逃がしたぁ!」 悔し気な声を出すヤマが川に向かって吼えている。転んだばかりだというのに、その元気はどこから来るんだ。 「やっぱり普通に追っても駄目だな。でも虫取り網は逃げられちまったし、どうしたもんかなぁ」 自転車を起こしている間にもヤマはうんうんと唸って思考中だ。ペダルもまわしてみて、よし、チェーンも特に外れてないな。 持ち主のところまで押していくと、ご苦労と返事をもらった。何様だこいつ。 「やっぱ別の手を考えるしかないな。リュウは何かいいアイデアあるか?」 「あったらとっくに出してる」 「だよなー。とりあえず、今日は帰ってかき氷でも食うか」 「練乳は用意してあるんだろうな?」 「……ちなみに糖分を押さえようって言う発想は?」 「ない!」 甘いものは別腹だからな。 僕がおしてきた自転車を受け取ったヤマと一緒に坂を上っていく。 あんなにきらめいていた水面も、今は積乱雲の影になってその輝きを失っていた。 遠くでは太陽の恵みを受けた煌びやかな世界があるというのに、僕らの周りだけはうっすらと影で隔離されているみたいだ。 涼しいのはいいことだけど、なんだかやるせない。夏が、僕の中から消えてしまったみたいだ。 「……なあ、聞こえるか?」 「なにが? 僕の腹の音?」 「自虐ネタはいいから。……ほら、すぐ近くでさ」 夏が鳴りを潜めた世界で、ヤマのささやく声が大きい。 影の国で差された方向に耳を澄ますと、確かに鳴き声のようなものが聞こえてきた。 「猫かな」 「たぶん」 「――いいこと考えた!」 どうせくだらない事だと思うけど、という言葉を飲み込んで、ヤマが駆け出すにまかせた。 鳴き声の主はすぐに見つかった。縞模様のかわいい猫が一匹、うずくまって鳴いていたのだ。 ヤマはその子を恐る恐る撫でてみるが、特に反抗は見えない。捨て猫なのかもしれない。 僕はヤマの考えるいいことがなにか大体察していたが、特に何も言わない。それでヤマの気が済むなら。 「なあなあ、リュウ!」 猫を抱きかかえた犬が、僕を見て口を開く。 キラキラした太陽みたいな目は、いつだって僕の傍にいた。 だから、僕は、あの魚を捕まえようと思うんだ。 「やっぱ、魚には猫だよな!」