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【短編】アセクサナイン 1話『体育倉庫裏の白球』 Part.1

放課後、僕たち野球部が練習に使用しているグランドに、 ぱぁん、とグローブの音が軽快に響く。 「真柴(ましば)! 集中せえ!」 「はい! すみません!」 二人一組の遠距離キャッチボール。 2年生・青野(あおの)先輩と組んで白球を投げ合いながら、 僕、真柴はひとり内股気味に焦っていた。 (トイレ、行きたい……!) 青野先輩はいつも通り正確に投げてくれているのに、僕は暴投一歩手前の酷い球ばかり。 先輩は取りづらいったらないだろう。 非常に申し訳ないが、今の僕にボールをコントロールする余裕などなかった。 あぜくさ高校野球部規則、その4。 『練習中はトイレ禁止』。 遊蕩癖により不在気味な監督に代わり、3年生・タヌ森(たぬもり)主将が掲げたこの規則は、 「マジメに練習をしていれば水分は全て汗で流れ出るはずだ」という、 無茶苦茶な理論のもとで考えられていた。 もちろんマネージャーが作ってくれるスポーツドリンクは誰でも自由に飲んでいいし、 むしろ練習中でも積極的に飲むよう勧められている。 言うまでもなく、このごろ世間を賑わせている熱中症の予防のためである。 ただし、タヌ森主将は誰よりも"規律による抑制"を重んじる人だった。 恐れながら言わせてもらえば、それはむしろ"抑圧"といった方が正しかった。 水分を摂るのは自由だが、そのぶん練習にも力を入れるべきだという考え。 それはつまり摂取した水分と同じだけ、練習して汗を流せということだ。 そういった思想のもと打ち立てられたこの『練習中はトイレ禁止』というルールは、 協議の末になぜか正式な部内規則として採用されてしまい、 不幸にもこの野球部を"漫然な練習"から守る役割を負っていたのだった。 「うう……」 もちろん、我慢できなければトイレには行ってもよい。 そこには強制も強要もない。 しかし、僕は3年生からの評価を落とすのが嫌だった。 真面目に練習していないからトイレになんか行きたくなるんだ、と思われたくなかった。 事実、僕ら1年生が入部してからというもの、未だ誰も練習中にトイレに行っていない。 余計なプライドと言われればそれまでだが、それでも不名誉な1番乗りはごめんだ。 それに何より、トイレに行くには、 まずキャッチボール相手の青野先輩に言わなければならない。 青野先輩は優しいから、もちろん行ってこいと快く言ってくれるだろうが、 僕は他のどの上級生よりも、青野先輩の期待を裏切るのが怖かった。 いつも優しくて、身の回りのことまで気遣ってくれる青野先輩。 クセのある先輩たちの中でも礼儀と常識をいつも忘れずに行動する青野先輩。 僕にとって憧れの先輩であり、ありがたい模範であり、目指すべき目標だった。 だから僕も、先輩にとって『理想の後輩』であろうとしていた。 (で、でも……) 僕の膀胱は、そろそろ限界だった。 額を伝う汗はもはや、運動由来のものなのか単なる脂汗なのかも区別がつかない。 トイレに行くにせよ、もう少しでキャッチボールが終わりノック練習に移るので、 最悪そのタイミングで言い出せばまだ多少は自然に行けるだろう。 そう思って我慢していたが、もはやそんな悠長なことも言ってられなくなってきた。 (やばい……もう、限界が近い……!) いよいよボールの捕球すら困難になりかけていた時、 青野先輩が放ったボールが、大暴投により体育倉庫の方へと飛んでいってしまった。 「すまん、真柴! すっぽぬけてしもた! 一緒に取りに行ってくれんか?」 慌てて駆け寄ってくる青野先輩。 ボールくらい、言ってくれれば下級生である僕が一人で取りに行くのに。 しかしこの人は下級生に対していつも誠実で、 どんなことであれ自分の尻を他人に拭わせたがらないところがあった。 ……それに踏まえて勝手なことを言うが、ボールを取りに行くくらい、 わざわざ僕を連れて行かなくても、と思ってしまう。何も今、こんな時に。 しかしいくら青野先輩が寛容的な方とはいえ、 下級生が先輩に口答えするなど許されない。 「は、はい……。行きましょう、青野先輩!」 僕の返答は確定されていた。 これ以外の返事はありえない。選択肢など存在しない。 別にウチに限らず、世の野球部の常である。 僕と青野先輩は、連れ立って体育倉庫の方へとボールを取りに行った。 僕の膀胱は本当に限界だった。 グラウンドの隅にある体育倉庫では、 主に野球部・サッカー部・テニス部で使う用具などが保管されている。 ライン引きやグラ整で使うトンボなどもここから毎回引っ張りだしている。 その体育倉庫の裏へと、青野先輩が入っていく。 グラウンドの周囲を囲むブロック塀との間は、わずか2mほどしかない。 こんなところに落ちたのか、青野先輩の放ったボールは。 僕はトイレに行きたいといつ言おうか迷いながら、青野先輩の後へと続く。 僕はまだ小柄なほうだからいいものの、体格のいい青野先輩は、 狭い空間で身動きが取りづらそうだった。 「……真柴よ」 「ふぇ……は、はい?」 尿意を我慢したまま青野先輩に急に話しかけられて、変な声が出てしまった。 「……お前、我慢しとるやろ」 「え……!」 青野先輩の言葉がぎくりと刺さる。 緊張でケツの穴がきゅっと締まるのが分かる。 「ションベンや。見とったらバレバレやぞ」 「…………! あ……う……」 そんなに分かりやすかったのか、と、恥ずかしくてうまく返事もできなかった。 「トイレ行きたいなら行きたいって、言うてええんやで」 青野先輩は、優しい声でそう言ってくれる。 「……でも……」 僕は、先輩から目をそらしてしまう。 「……まぁ、気持ちも分からんでもないけどな。俺かてちょっと行きづらいし」 「青野先輩もですか?」 「後輩に示しがつかんから黙っとるけど、我慢してる時はあるぞ」 「…………」 意外だった。いつも平然と動いているように見えたから。 先輩だって我慢することもあったんだ。 「言い出しづらい空気になってるのは分かるけどな。  でも、ほんまにしたい時は言わなあかんで。漏らす方がよっぽど恥ずかしいやろ」 「う……」 先輩の言うことはもっともだった。 「はい……すみません……」 「謝らんでええて、そんなに我慢させてゴメンな」 青野先輩が頭をくしゃっと撫でてくれる。 やっぱりこの人は、他の先輩たちと違って下級生に優しい……。


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